ちゃおチャオブログ

日々の連続

ルソン山紀行(36)ボントックの石組田んぼ。

走路際に最初の田んぼが見えたが、この辺はまだ山の中。人家などは見えない。
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ジプニーは坂をどんどん下り降りて行く。
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ボントックの町は、まだ大分下だ。
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あ、石垣が見えて来た。珍しい! 人工構造物だ!
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いやー、沢山の石垣。どれも古そうだ。稲が青々と実っている。
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11時にバナウエイを出たジプニーは、山頂近くの採石場を通り抜け、その直ぐ先の峠の茶屋で一休みし、その後はどんどん下り坂になって、車は山を下りる。採石場がこの国道の一番高い場所にあったのは、考えてみれば理に適っていた。これ等の砂利が国道の舗装に使用されるとすれば、高い場所から低い場所への運搬が容易になる。人里離れた、あんな場所での採石場はそんな背景があったのだろう。

この国では山に植林するという概念はないようで、道中は全て自然林になっているが、道路が段々標高の低い所に下って来ると、周辺の植生に変化が見られるようになる。小規模だが、どことなく植林したような疎らな林が見えて来て、その少し先に稲作の田んぼが見えて来た。この辺は山中のまだかなり高い場所であり、周辺には人家は見えないが、下から車でやってくるのか、或は、道路から見えない場所にひっそりと人家でもあるのか・・。

それから更に下ると、今度は、大規模な石組による田んぼが見えてくる。山の反対側、バナウエイでは棚田(ライステラス)で有名だが、こちら側では石組、石垣を重ねた棚田が有名だ。この田圃は日本の畑にも似ている。江戸時代、土地の少ない地方では、「開墾」、「新田」と称して、山を切り開き、石を組んで段々畑にし、食料増産に努力した。その日本の山間の段々畑にそっくりな情景が目の前に広がる。平野の多いタイとかラオスでは、全く見られない光景だ。

石組の技術、文化がどこからどのように普及、発展してきたのかは知らない。遠く、エーゲ海地方の石組の技術が中国に齎され、その中国を中心として、周辺のアジア諸国に伝播していったのだろう。ここフィリピン・ルソン島の山奥の集落にしても、江戸時代の日本にしても、そうした周辺国の一つなのだろう。そうこうする内に、道路の周辺の人家の数も増えて来て、1時、山岳州(Mountain Province)の州都、ボントックに到着した。



アジアでは、自然の状態を利用した田野、原野が多いが、こうした人の手を借りての人工物を見るのは珍しい。
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朝見て来たバナウエイでもそうだったが、ここでも人々は努力家だ。この美しい石組!日本の段々畑以上だろう。
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石垣は、ずっと先の山の麓まで続いている。ここは又イフガオとは違った種族が生活しているのか・・
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ああ、前方に漸く集落が見えて来た。ボントックも近いだろう。
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午後1時、マウンテン州の州都ボントックに到着した。
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