ちゃおチャオブログ

日々の連続

御巣鷹慰霊登山の旅(12)御巣鷹を下山し、帰京の途へ。

斜面を平にされた広場では、同行の二人が物思いに話し込んでいる。
イメージ 1



二人にとっても、語り尽せぬ出来事。
イメージ 2



コーヒーの献杯で気持ちを鎮め、下山する。
イメージ 3



下山時のカウンターは1547を表示している。入山時が1533だったから、我々3人を含め、この僅かな時間に14人も入山したのか・・
イメージ 4



御巣鷹をもう一度仰ぎ見て、日永田さん、その他の霊に別れを告げる。
イメージ 5



我々を送る御巣鷹の山、高天原の山々。
イメージ 6




時間は既に2時になっている。お昼も食べずに登って来たが、おやつも駄菓も何も無い。生きている者、一食抜いた位でも泣き言を言う。峰の広場に戻り、持ってきたコーヒーで献杯をし、飲み干す。日永田さんにはこんなものしか用意できなかった。遺族とは違った冷たい対応だ。この時間、遺族と思われる何人かが、猶登って来ている。「昇魂之碑」に生花を捧げている。30を少し過ぎた位の若い夫婦か、恋人同士だ。事故当時生まれたばかりの幼児だったのか、犠牲者は叔父さん叔母さん、或は親族の誰かだったのか・・。秋分の入り。毎年年何回か、祖父母に代わりこうやって来ているのかも知れない。

日永田さんも、家族もろとも亡くなって、一家は全滅してしまったが、両家の両親は残された。その4人の両親も、事故当時は既に60歳以上、現在も生存しているかどうかは分からない。むしろもう既に亡くなっているだろう。結局人は遅いか早いかの違いはあっても、皆等しく黄泉に旅立つ。それを一番良く知っていたのは、戦時中、若い航空兵の壮絶な死を身近に見てきて、戦後はこの山深い上野村に引っ込んできた黒沢村長だったが、戦争が終わって既に40年、今また再び空前絶後の航空機事故、過去最大級で、且つ現在もこの記録が破られていない、520名の犠牲者を出した、日航ジャンボ機御巣鷹の事故。再び彼の胸中に悪夢が舞い戻ったが、魂は全て昇華する。航空兵もジャンボ機乗客も。それが分かっていたからこそだろう、事故の1年後に建立された「昇魂之碑」。最後のコーヒーを飲み干し、下山することにした。

下山は殆ど駆け足のように、何かに追い立てられるかのように下り降り、登った時の半分位の時間で下山。もう一度谷の清水、霊水を飲み山を降りた。入山時のカウンターは1533だったが、今見ると、1547.二人分を差し引くと、この2時間にも満たない僅かな時間にも12人からの慰霊者が入山したのか。山の登山では元気に交わす挨拶も、ここでは一段と声を潜め、沈んでいた。雑木林の薄暗闇が、更に心を沈殿させたかも知れないが・・。

登山口で借りた2本の杖を元の場所に返し、もう一度御巣鷹を仰ぎ見る。普通の山であるような、特別な山であるような・・。この山に登ったアメリカ人遺族の一人は、この山にスピリットを感じた、と途中の記念碑に英文で書いていた。自分はそうした霊感を持ち合わせてはいないが、日永田さん及び家族には供養になったと思う。山はそんな風に応えてくれていたように自分には思えた。

再び東電、上野ダムの横を通過し、県道に出て、再び川の駅の前を通り、その少し先のうどん屋「十石うどん店」に入り、地元の名物、子宝うどんを遅い昼飯で食べ、一路秩父路を南下した。小鹿野の集落を通り抜け、日高、高麗を通過し、高麗神社の傍らを通過した時に、はたと思った。そうか、甘楽(かんら)にしても神流(かんな)にしても、韓(かん、から)の転訛だったのか・・。霊魂は故郷に立ち返る。遠い昔、大陸から渡ってきてこの大和路に住み着いた人種の子孫に取って、御巣鷹は実に魂の帰り着く場所だったのかも知れない・・・。御巣鷹の正式な地名は高天原と言う。

                                                   終



東電、上野ダムの横を通過する。
イメージ 7




県道に出て、前方に十石峠付近の山々を見る。
イメージ 8



もう3時近くになっていて、お昼を大分過ぎてしまった。丁度川の駅の直ぐ先に「十石茶屋」という食堂があった。
イメージ 9



ここの名物、子持ちうどんと、甘垂れ味噌の豚トンの舌づつみ。
イメージ 10



「笑え」。悲しんだ後には笑って過ごせ。「笑え、笑え」。
イメージ 11



野辺に咲くゲンのショウコ。人は死してみな土に還る・・・。山川草木悉皆仏性。
イメージ 12