ちゃおチャオブログ

日々の連続

最悪のインド旅行記(14)ベナレスの路地・迷路。

インターネットで予約したジェットエアーのチケット。デリー~ベラナシ間は¥14,440.-の代金。
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カメラが無いので、絵葉書を買って旅の思い出とした。
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ベラナシは何と言ってもガンジス河。ホテルの眼下に滔々と流れていた。
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インド人は生涯に一度、この川にやってきたいと願っている。
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しかし自分にとってのこの町の第一印象は、大勢の人々と、入り組んだ迷路だった。
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昔の呼び方で言えば「ベナレス」。インド・ヒンドウでは「Varanasi」。従って、最近のガイドブックではインド風に「バラナシ」と呼ぶようになっている。「ベナレス」とは英植民地時代の「Benares」から来ているもので、現在「コルカタ」(Kolkata)と呼ばれているインド第2の大都市も、植民地時代には「カルカッタ」(Calcutta)と呼ばれていたのと同じことだ。

英国はこの広大なインド亜大陸を植民地化するに当たって、ヒンドウ流の呼び方を敢えて意図的に違えて呼称した。「ムンバイ」を「ボンベイ」、「ヤンゴン」を「ラングーン」と呼んでいたのは、皆同一線上の言葉違えだ。元々の地名が土着で古臭く、英国風の呼び方に変えることによって人々の意識を変える、即ち、今この国の支配者は英国人である、との意識を被支配者に植えつけようとしたのだろう。

しかし良く理解できないのは、これ等の都市名が元のヒンドウ流の地名に戻されたのは、インドやミャンマーが英国から独立した直後ではなく、随分暫らく経ってからだ。正確な記憶は無いが、確か30-40年も経ってからのことだと思う。どうしてこれだけの長い時間を要したのか理解不能であるが、思うに、植民地下の時には上からの命令一下で、直ぐにも変更できたが、取り敢えずは独立後の民主国家、一度定着した呼称を変更するには、それなりのモラトリアム期間を要したということか・・・。

それはさておき、この町には東京の自宅のパソコンからネットでの予約で、デリーーバラナシ間のジェットエアーでチケットを購入し、今朝やってきた。デリー空港は殆ど定刻通りの10時40分に離陸し、約1時間、12時前に到着した。ジェットはほぼ満席で、大半はインド人乗客だったが、白人も何人か乗っていた。機体自体は他のタイやマレーシア、インドネシア等で飛んでいるのと同じようなタイプで、LCCのシンプルタイプだ。

空港ロビーには、当方の名前カードを掲げたドライバーが待っていてくれたので、直ぐにも分かりベナレスの街へ向かった。空港は町に近く30分も掛からずに賑やかな交差点までやって来た。そこで、「ここで降りろ。ホテルは向こうだ。車が入れないので、ここから歩いて行け。」と言われ、途方に暮れたのは、先日記した通りだ。全く冷たい運転手で、当方が中国人と間違えられたのかも知れない。

凄い雑踏の中で、通行人にも聞きようがない。近くには警官も見当たらない。又、「?」、観光案内所のような気の利いたBoxもない。兎も角通行人を掴まえてはホテル予約表を見せ、場所を聞き聞きホテルに向かう。先刻のドライバーが言っていたように、車が通れるのは表の大通りだけで、そこからちょっと中に入ると入り組んだ路地が迷路のように繋がっている。成程、これでは車は入れないが、それにしても車をどこかに止めて、案内してくれても良さそうなものを・・。

路地の途中で何人かの通行人、商店主等々に聞き、漸くホテルに近づいてきた。しかし路地には大きな牛が放し飼いにされていて、通行を妨げている。道路を塞いでいるのだ。見ていると、子供達が牛の横を上手に潜り抜けて先に行っている。そうした子供の動きを見習って、・・道路に排出された大きなうんこ・糞尿を踏まないように気を付けて、前に進み漸くホテルに辿り着けることができた。

「ベナレス」は「ガンジス」。聖なる河ガンジスとベナレスは一体だ。インドの人々は死ぬまでの一生の間に一度、この町にやって来て、聖なる河「ガンガー」で沐浴出来るのを夢としている。ホテルの3階のベランダから漸く眼下にこの大河を眺めることができたが、当方にとってのこの町の最初の印象は、何と入り組んだ迷路のような路地の繋がりと、それを塞ぐ巨牛だった。



町は古く、路地が入り組んでいる。
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大通りでさえ、こんな感じだ。
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路地の商店主に尋ねながら、ホテルを探す。
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路地をこんな感じで牛が塞いでいて、最初は困った。
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しかし牛は人を襲わないことが分かり、後では慣れて来たが・・。
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