ちゃおチャオブログ

日々の連続

行き違いのタイ旅行(12)バンコクの水運。

ラチャダムヌン大通り(ถนนราชดำเนิน)の民主記念塔を通り過ぎると、正面に「城砦」(ポーンプラカーン)が見えてきた。
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ここは昔、王城のある「ラタナコーシン」(รัตนโกสินทร์)を守る城砦として作られた。
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後方には「黄金の山寺院」(ワット・サケート・プウカオ・トーン)の黄金の屋根も見える。
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フェリー乗り場の斜め前にはシリキット王妃の記念館も建っている。「プラナーンジャオ・シリキット」。
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その向かいには壮麗な王宮寺院、「ワット・ラチャナダラム・ウオラウイハーン」が建っている。
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バンコクの水運」などと書くと、皇太子殿下の研究テーマのような感じの表題になるが、皇太子に限らず、バンコクは水運の都だ。以前から東洋のベニスとも言われている。近代化の大発展しているバンコク市内を歩いていると、この街の一体どこが「東洋のベニス」かと、信じられない気持ちになるが、市の大動脈、スクンビット大通りの一本裏側には「センセープ運河」という、これも又嘗てのバンコク市内の大動脈であった大きな運河が数十キロにわたって繋がっている。その他、この運河に連なる支流の運河や、住宅地の裏側まで続いている小さな運河を数えたら、数限りなく存在し、矢張り「東洋のベニス」と言われる由縁だろう。

昭和30年前後、三島由紀夫は最後の小説、豊饒の海の中の「暁の寺」の構想、執筆の為、バンコクを何回か訪れ、サマセットモームも滞在したホテルオリエンタルに長期宿泊し、その間、南国特有のスコールに毎日遭遇し、こうした運河が増水し、溢れた水が道路を冠水する様を「暁の寺」の中にバンコクの情景として描いているが、当時、高層ビルは殆ど無く、無論、高速道も地下鉄も無かった当時のバンコクでは張り巡らされた運河の水運が、庶民の足であった。今、東京がベニスのゴンドラに見習って、水上タクシーの導入を計画しているが、既に隅田川有明間には水上定期船が走っていて、通勤者の便利な足にもなっている。皇太子ではないが、過密化した大都市では、こうした舟運をもっと活用できれば、都市部の渋滞解消には大いに役立つだろう。

こうして今朝はシーロムからバスに乗ってワットポーまでやってきて、王宮前広場を散歩し、カオサン通りを通り抜けてラチャダムヌン大通りに出て、民主記念塔の前を通って、このセンセープ運河のフェリー乗り場、パーンファー橋までやってきた。目の前にはシリキット王妃記念館があり、興味をそそられるが、以前は入ったこともあり、又、昼飯もどこかで食べなければならない。フェリー乗り場周辺には数店の屋台があったが、どこも非衛生的な感じがして、取り敢えずはプラトナムまで出て、そこで昼飯としよう。フェリーに乗れば10分、15分だ。バスに乗って道路を行くよりかは、余程か早い。



以前、この寺院で6連のお守り仏を買ったことがあったが・・
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フェリー乗り場。これから市内にはフェリーに乗って、戻ることにしよう。
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フェリー乗り場周辺には何店かの屋台食堂があったが、ここで食べるのは止めて置く。
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ああ、フェリーがやって来た。取り敢えずはフェリーに乗ってプラトナムまで出よう。
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ここが始発になっているが、殆ど満席だ。フェリーは10分おきにやってきて、便は良い。
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