ちゃおチャオブログ

日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(15)フェリーにてカオルーン(九龍)へ。

香港島と九龍の中間線辺り。海峡の北川は狭まって見え、閉じられた湾のようにも見える。
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中央線を過ぎると九龍サイドの光が強くなってくる。
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香港島も段々遠のいていく。昔からあるAIAの看板も見える。
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九龍ハーバーが段々大きくなってきた。
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フェリー広場の時計塔(The Clock)も正面に見えてきた。
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香港島と半島とを隔てる海峡は精々2-3キロ。フェリーで15分程度で往来できる。大陸と島との通勤者の良い足となっている。昔はこの海峡を大小様々な小舟やフェリー、運搬船などが水すましのように行き来していたが、今はその賑やかさは殆ど見られない。海底トンネルが出来て、人とモノ、大半の物流は艀から車に変わったのだろう。唯一残っているのはこのフェリーで、以前は「Star Ferry」と呼ばれていたが、今でもそうなのか・・。看板を探してみたが、見当たらなかった。唯一以前と変わらなかったのは船員のセーラー服姿で、これは50年前と同じで、イギリスがこの島の権利を放棄して以降も、又この先もずっと変わらずに残って行くだろう。

島と半島の両側からの光の洪水で、海上はむしろダークピッチの暗さであり、1隻観光客船が通り過ぎて行ったが、それが唯一の船らしい船だった。が、客が乗っていないのか、香港人、中国人の好きそうな満艦飾りの派手派手しさはなかった。こんな活気のある観光地でも世界経済不況の波は押し寄せて来ているのか・・。

海峡の真ん中、南側は広々と海域が広がっているが、北側は海峡が狭まって、両側からの光が重なり合っているようにも見える。一見、閉じられた湾のようにも見える。嘗ての世界三大貿易港。多くの貨物船が両側からの光に送られ、この海峡を通り過ぎて行ったに違いない。

嘗てはこの海峡の中間に境界線が引かれ、島のイギリス側と半島の、当時はまだ清国だったが、別々の施政権に区分けされていたが、何時の頃からは英国は徐々に侵略の触手を伸ばし、九龍半島の先端部を自国領に組み入れ、大陸への橋頭保を築いていった。今のペニンシュラホテル(Tha Peninsula/半島ホテル)が建っている尖沙咀(Tsim Sha Tsui)の小区画だ。その後幾つかの紛争を繰り返し、今では半島のずっと奥、深圳の手前までの数十キロの範囲を領有するに至った。

フェリーはその嘗ての中間線を通り過ぎると、香港島は徐々に遠ざかり、反対に九龍側の高層ビルの明かりが近づいて来る。そのビルの殆ど中央付近に時計台がライトアップされて見えてきた。The Clock.英国植民地支配の象徴だ。



半島サイドも島サイドに劣らず、高層ビルのラッシュだ。
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フェリーを下りると広場では若者が大道芸をやっていた。
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路上パフォーマンス。最近は東京でも流行って来ているが・・。
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九龍埠頭から島を眺める。右手に青く観覧車が見えている。
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今日の処はこれ位で見納めにしておこう。
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