ちゃおチャオブログ

日々の連続

湯河原の1日(1)四季彩のまち。

JR東海道線湯河原駅は海岸より一段高い段丘上にある。
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こんな感じの駅前広場になっている。
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駅前広場の真ん中辺りに銅像が立っている。
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この一対の銅像は鎌倉初期の武将、土肥實平夫婦像。この付近に当時の館があったとのことである。
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解説によれば、土肥氏は鎌倉初期のこの辺りの領主で、石橋山で敗れた頼朝を助け、山の中の岩屋にかくまったとのことである。
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東京の奥座敷、湯河原。東京駅からJRアクティで1時間ほどで行ける。前東京都知事舛添要一は湯河原は奥多摩へ行くよりも近いとのたまい、動く知事室に乗って毎週末通っていたものだ。ここの温泉は彼の腰痛によく効くとかで、さぞかし都政に邁進できたでしょう。だが、実際は森五輪組織委員長の言いなりになって、都政に汚点を残して去っていった。

そんないわく付きの街、湯河原にやってきた。今晩は奥湯河原で40年前の同胞と1泊懇親会が行われるのだ。自宅を少し早目の8時過ぎに出て、久しぶりの中央線の通勤電車に揺られ新宿へ。新宿乗り換え小田急でやってきた。湯河原は以前車で数回通貨したことはあったが、電車でやってきて、町を歩くのは今回が初めてだ。今日は温泉もさることながら、頼朝が石橋山合戦で敗れた後、この部落に落ち延び、その後の鎌倉幕府開府のきっかけとなった故地を訪ねるのも楽しみの一つだった。

駅前は目の前の海、相模灘に面した小高い段丘上にあり、一段下の崖下に街が広がっている。駅前広場の正面に銅像が立っていて、近づいてみると当時のこの町の豪族、土肥實平夫婦像だ。彼こそ頼朝が石橋山で敗れた後、7騎の落ち武者を引き連れ、この地に匿った御家人である。この銅像が建てられている場所に当時の城館があった、とのことである。目の前の海が見渡せ、実に眺めの良い場所である。

その崖上の際の所に、この街の案内板が出ていて「四季彩のまち さがみの小京都」とある。何で「四季彩」なのか理由が分からず、案内板を読んではみたが、それでも「四季彩」の謂れの意味は不明だった。多分電通あたりの頭の良いメデアマンが、口当たりの良いネーミングとして考えたのだろう。この街に日本画壇の巨匠、竹内栖風が晩年を過ごしていたとのことであり、その由縁で「小京都」とでも名付けられたのか・・。歩いて楽しそうな街だ。取り敢えずは、先ずは土肥氏菩提寺城願寺へ行ってみよう。



駅前広場には各種案内も出ていて、ここ湯河原が「四季彩のまち 相模の小京都」と命名されているそうだ。
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場所的には小田原と熱海の中程にあり、直ぐ隣に真鶴半島がある。
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この近くには、石垣山一夜城とか石橋山合戦場跡などもある。
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湯河原駅周辺の案内図。
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今晩泊まる青巒荘の案内も出ている。これから行く成願寺はどこだろう・・。
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