ちゃおチャオブログ

日々の連続

湯河原の1日(5)湯河原「五所神社」。

湯河原は山が近くに迫っていて、自然の渓流を利用しているのか、住宅地にはこのような簡易水道施設も見られた。
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本質学研究所? 人生の意味? 何の研究なんだろう・・
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斜面も多く、崖にはカタバミのような花も咲いている。
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前方に五所神社の森が見えてきた
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ここがこの町の発祥の地であり、へそのようなものだ。
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湯河原「五所神社」は町のほぼ中央部付近にある。五所神社とは珍しい名前だが、社殿を見ると、今から1350年ほど前、この地方が加賀の住人、二見加賀之助等によって開拓された際、土肥郷の総鎮守として創建され、天照大神以下5柱の神霊が鎮座されたと伝えられている。5柱を祀る神社だから「五所」は良いとしても、この湘南地方が加賀、今の石川県からやってきた人々により開発された、との記述で、当時、天智天皇の時代には、この辺りはまだ未開の地で、坂上田村麻呂が東北遠征する以前の事で、蝦夷等の北方種族が跋扈していたのかも知れない。その加賀からやってきた二見なる者の末裔が土肥氏族に当たるのか・・。又、隣町熱海にある二見が浦の地名は・・。等々、歴史の古い神社にやってくると、いろいろな想像が駆け巡る。

時代は下って治承4年(1180年)頼朝挙兵の際には、領主の土肥實平がこの境内に兵を集め戦勝祈願の後に石橋山に進発したと伝えられているが、何人の兵が集まったのか、それにしてはそれ程大きな境内ではなかった。その境内には先刻の城願寺で見た栢槇よりも更に大きな楠が大きな枝を茂られ、神木となっている。名板を見ると「明神の楠」とあり、根回り15.6m、一部が祠のようになっていて、土地の産土、安産の守り神ともなっている。

実にこの町はこの五所神社を中心に発展し、町の半分、山側を宮上、下の海側の部分を宮下の地名を当て、この神社を軸に上下に区分けされている。ちなみに前都知事舛添の別荘は、この神社の山側、宮上地区にあり、境内から眺めると右手前方の山の麓の辺りにある閑静な場所だ。こんな静かな温泉場まで毎週湯治に来ていて、何が「動く知事室」か!知事たるもの、言葉遊びで、都民をたぶらかせたらならぬのだ。拝殿と楠に参拝し 山の方、奥湯河原に向かって歩いて行くことにした。



さて社殿にお参りしよう。頼朝挙兵の際、土肥一族郎党がここに集まり、戦勝祈願した。
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境内には大イチョウの巨木が数木茂っている。
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幹回り8m、さすがに巨木だ。
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神社の向かいには根回り15mの史跡「明神の楠」の巨大木が他を圧倒している。
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前方の山の麓に前都知事、舛添の別荘、「何とか経済研究所」がある。
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