戸倉城山の山頂には、戦国時代の山城の案内図もあった。
俯瞰図を見ると、周辺の峰との連携で、他の山城との同じような構造になっている。
山頂から見下ろす五日市市街地。正面に駅舎が見える。
かなり広い盆地になっている。
戦国時代とは言え、山上のお城で生活するのは大変だったに違いない。高さ400mとは言え、毎日この山道を上り下りする家臣団も大変だったろう。現代人と違って、足腰が格段に強いと言っても、毎日のことであれば、疲労も蓄積する。八王子でもそうだったが、山城とは別に麓に邸宅を構え、平時の際は麓の館で生活し、いざ外敵襲来となった時には山城に立てこもり、外敵と戦った。八王子城址も同様に城山と呼ばれているが、その規模はここ戸倉よりは数等倍大きく、麓のお館、御主殿も規模の大きなものだった。
ここ戸倉の城山山頂はほんの10坪あるかないかの狭さで、山城と言うよりか、砦の類だったのだろう。山頂には色刷りの俯瞰図が掲示されていて、それを見ると周辺の山頂と連携して、防衛線を張っていたようだ。それは八王子城にも言えることであって、城山以外に幾つかの出城、砦、物見があった。山城と言えば幾つか印象深い城もある。その最たるものは斎藤入道の造営した岐阜城で、長良川の正面に小山がズンと立っていた。当時足腰もまだしっかりしていて、ケーブルカーはあったものの、下から歩いて登ったが、傾斜がかなりきつく、息が上がったが、信長の命でこの山城を攻めた秀吉(当時はまだ藤吉郎か)他配下の武将の困難さが思い知らされた。
案外簡単だったのは、松山の市電の直ぐ横に横たわる小山、勝山に立つ松山城で、ここもケーブルを使わずに、下から登ったが、ここは岐阜城と比べ100m以上も低いので、案外簡単に昇ることができた。尤も困難に見えたのは、錦帯橋から川の向こうの崖の上にそびえる岩国城で、橋の上から白い城郭が小さく見えるが、その距離を思っただけで、最初から登るのは諦めてしまった。他に山城らしいのは荒城の月で有名な豊後竹田城で、そこはちゃんとした自動車道があって、随分と簡単に行くことができた。まだ行ってないのは天空の城丹波竹田城と備中松山城で、今となってはもう行く機会もないだろう。
山頂から眼下の五日市市街地、その正面にレンガ色をしたJR駅舎も見えるが、かなり広い盆地で、戦国時代この町はどんな風だったのか、八王子滝山城から中半隠居の形でこの城にやってきた武将大石はどんな感慨をもって眼下の集落を眺めていたのか・・、等々思うと、自分が嘗て登った各地の山城が思い出され、山頂から眺めた城下の町が思い出された。様々な武将が山頂から大志を抱き、眼下を見下ろしていたに違いない。
ああ、そうだ、岐阜城は信長が前の城主斎藤道三の息子を追い払った後に命名した名前で、以前の稲葉山城を変更したものだ。この山の上から天下統一の大望を抱いた信長は中国戦国時代の故事「岐山」と丘を意味する「阜」、或いは孔子霊廟のある「曲阜」から名付けられたとも言われているが、高みから見下ろす戦国武将は誰れ彼となくそうした野望を抱くものかも知れない。
山頂から眼下の五日市を眺めたり、写真を撮ったり、自分なりの思い出に浸っていると、先刻途中で追い抜いたきょうこちゃん家族がやってきた。ああそうだ、良い記念になる。5歳の女の子とのツーショット。一緒に登ってきた、自分よりも年若なおじいちゃんに写真を撮ってもらい、それを汐に自分は山を下りることにした。
ここ戸倉の城山山頂はほんの10坪あるかないかの狭さで、山城と言うよりか、砦の類だったのだろう。山頂には色刷りの俯瞰図が掲示されていて、それを見ると周辺の山頂と連携して、防衛線を張っていたようだ。それは八王子城にも言えることであって、城山以外に幾つかの出城、砦、物見があった。山城と言えば幾つか印象深い城もある。その最たるものは斎藤入道の造営した岐阜城で、長良川の正面に小山がズンと立っていた。当時足腰もまだしっかりしていて、ケーブルカーはあったものの、下から歩いて登ったが、傾斜がかなりきつく、息が上がったが、信長の命でこの山城を攻めた秀吉(当時はまだ藤吉郎か)他配下の武将の困難さが思い知らされた。
案外簡単だったのは、松山の市電の直ぐ横に横たわる小山、勝山に立つ松山城で、ここもケーブルを使わずに、下から登ったが、ここは岐阜城と比べ100m以上も低いので、案外簡単に昇ることができた。尤も困難に見えたのは、錦帯橋から川の向こうの崖の上にそびえる岩国城で、橋の上から白い城郭が小さく見えるが、その距離を思っただけで、最初から登るのは諦めてしまった。他に山城らしいのは荒城の月で有名な豊後竹田城で、そこはちゃんとした自動車道があって、随分と簡単に行くことができた。まだ行ってないのは天空の城丹波竹田城と備中松山城で、今となってはもう行く機会もないだろう。
山頂から眼下の五日市市街地、その正面にレンガ色をしたJR駅舎も見えるが、かなり広い盆地で、戦国時代この町はどんな風だったのか、八王子滝山城から中半隠居の形でこの城にやってきた武将大石はどんな感慨をもって眼下の集落を眺めていたのか・・、等々思うと、自分が嘗て登った各地の山城が思い出され、山頂から眺めた城下の町が思い出された。様々な武将が山頂から大志を抱き、眼下を見下ろしていたに違いない。
ああ、そうだ、岐阜城は信長が前の城主斎藤道三の息子を追い払った後に命名した名前で、以前の稲葉山城を変更したものだ。この山の上から天下統一の大望を抱いた信長は中国戦国時代の故事「岐山」と丘を意味する「阜」、或いは孔子霊廟のある「曲阜」から名付けられたとも言われているが、高みから見下ろす戦国武将は誰れ彼となくそうした野望を抱くものかも知れない。
山頂から眼下の五日市を眺めたり、写真を撮ったり、自分なりの思い出に浸っていると、先刻途中で追い抜いたきょうこちゃん家族がやってきた。ああそうだ、良い記念になる。5歳の女の子とのツーショット。一緒に登ってきた、自分よりも年若なおじいちゃんに写真を撮ってもらい、それを汐に自分は山を下りることにした。
先刻追い抜いたきょうこちゃん家族がやってきて、記念にツーショットの写真を撮ってもらう。
山は秋の装い・・。