お寺の横には師岡神社もある。師岡城の名残だ。
神社の横からも行けるが、この墓地を真っ直ぐ上って行くのが早いと、土地の人に教えられた。
スマホで地図検索すると、東青梅駅から塩船観音までは5キロもない感じだ。歩いて1時間もかからないだろう。東京郊外の手入れの行き届いた庭先を見ながら歩くのも気持ちが良い。最初に駅の目の前に小山があって、そこを登ってから向かうことにした。大塚山公園という、ここも又よく手入れのされた自然公園で、100mにも満たない小山だが、山頂は東京都水道局の管理地になっていて、立入禁止のスチールネットでブロックされている。
水道施設があるに違いない。この山頂にある大型タンクに水を貯めて、各家庭に給水すれば、水圧は抜群だろう。この山全体が都の管理地になっているのだ。それでこの様に奇麗に整備されていたのだ。それにしても、この住宅地の中にある自然のオアシス。誰もオゾンを求めに来ないとは、全くもったいない、贅沢な話だ。
大塚山から連想されるのは、古墳時代、この地を治めた大王が、この山のどこかに埋葬されたと想像されるのだが、今やその大王の名前も、埋葬場所も人々の記憶からは失われ、大塚山との名前だけが後世に残された。その大王の埋葬の山のてっぺんに現代の支配者、水の供給者が住民に命の水を与えている。大王は力でもって住民を支配したが、現代の支配者は住民の協力によって支えられている。1500年の時の流れは、この地を、日本を、世界をこの様に変えていく。
スマホ地図には、この小山の近くに勝沼城址とのマークが見える。又地図上にも城山通り、との名前が書いてある。そうだまだお昼前で時間は十分ある。その城址を見てから塩船に行くのも悪くはない。大塚山を取り巻くお堀のような小川を渡り、車を手入れしていた高齢の男性に、城跡とか光明寺の場所を聞いても良く知らない。
見るとこの周辺は20年位前に開発された郊外型戸別分譲地のようだ。高齢とはいえ、元々この地に生まれ、育った人ではなく、他所から転入してきた住民に違いない。幾ら高齢とはいえ、歴史に関心を持っていなければ後からやってきた住民には城址もお寺も分からないのだろう。最初から知らないと言ってくれれば良かったのだが、何かあやふやな答えながら一応は教えてくれたので、その通り行った処が、後でスマホを確かめると、随分大回りして行くことになった。
連休でも沢山の子供達が校庭で何かのゲームをしたり練習したりしている青梅第四小学校の校庭をぐるりと回り、漸く光明寺の前に出て、墓地を突っ切るようにして後ろの山に登ると、林が切り開かれた見晴らし台のような所に出て、そこが勝沼城跡だった。何かお城の痕跡でも残っているかと期待して山に入り込んだのだが、そこにあったのは都の教育委員会の案内看板だけで、その案内板を読むと、元々はこの城は平将門の血を引く三田氏がこの地を治めていたのだが、戦国期、小田原北条に滅ぼされ、その後北条配下の師岡氏に取って代わられ、以前は師岡城と呼ばれていたのだが、北条滅亡後、この近くの滝山城、八王子城と共に、廃城になったようだ。
燦燦と降り注ぐ初夏の太陽の下、墓地の上の見晴台、凡そ100-150m位の高さだろうか、眼下に開ける青梅丘陵を眺める。丘陵はなだらかには村、福生の方面に下り落ちていて、関東平野も一望だ。目の良い人なら、鎌倉の海なども見えたかも知れない。大塚山同様、ここにもハイカーは全くおらず、杉林はずっと深く奥の方まで続いていたが、一人で薄暗い林の中に入り込む勇気もなく、この高台から青梅丘陵を眺め、下山することにした。
水道施設があるに違いない。この山頂にある大型タンクに水を貯めて、各家庭に給水すれば、水圧は抜群だろう。この山全体が都の管理地になっているのだ。それでこの様に奇麗に整備されていたのだ。それにしても、この住宅地の中にある自然のオアシス。誰もオゾンを求めに来ないとは、全くもったいない、贅沢な話だ。
大塚山から連想されるのは、古墳時代、この地を治めた大王が、この山のどこかに埋葬されたと想像されるのだが、今やその大王の名前も、埋葬場所も人々の記憶からは失われ、大塚山との名前だけが後世に残された。その大王の埋葬の山のてっぺんに現代の支配者、水の供給者が住民に命の水を与えている。大王は力でもって住民を支配したが、現代の支配者は住民の協力によって支えられている。1500年の時の流れは、この地を、日本を、世界をこの様に変えていく。
スマホ地図には、この小山の近くに勝沼城址とのマークが見える。又地図上にも城山通り、との名前が書いてある。そうだまだお昼前で時間は十分ある。その城址を見てから塩船に行くのも悪くはない。大塚山を取り巻くお堀のような小川を渡り、車を手入れしていた高齢の男性に、城跡とか光明寺の場所を聞いても良く知らない。
見るとこの周辺は20年位前に開発された郊外型戸別分譲地のようだ。高齢とはいえ、元々この地に生まれ、育った人ではなく、他所から転入してきた住民に違いない。幾ら高齢とはいえ、歴史に関心を持っていなければ後からやってきた住民には城址もお寺も分からないのだろう。最初から知らないと言ってくれれば良かったのだが、何かあやふやな答えながら一応は教えてくれたので、その通り行った処が、後でスマホを確かめると、随分大回りして行くことになった。
連休でも沢山の子供達が校庭で何かのゲームをしたり練習したりしている青梅第四小学校の校庭をぐるりと回り、漸く光明寺の前に出て、墓地を突っ切るようにして後ろの山に登ると、林が切り開かれた見晴らし台のような所に出て、そこが勝沼城跡だった。何かお城の痕跡でも残っているかと期待して山に入り込んだのだが、そこにあったのは都の教育委員会の案内看板だけで、その案内板を読むと、元々はこの城は平将門の血を引く三田氏がこの地を治めていたのだが、戦国期、小田原北条に滅ぼされ、その後北条配下の師岡氏に取って代わられ、以前は師岡城と呼ばれていたのだが、北条滅亡後、この近くの滝山城、八王子城と共に、廃城になったようだ。
燦燦と降り注ぐ初夏の太陽の下、墓地の上の見晴台、凡そ100-150m位の高さだろうか、眼下に開ける青梅丘陵を眺める。丘陵はなだらかには村、福生の方面に下り落ちていて、関東平野も一望だ。目の良い人なら、鎌倉の海なども見えたかも知れない。大塚山同様、ここにもハイカーは全くおらず、杉林はずっと深く奥の方まで続いていたが、一人で薄暗い林の中に入り込む勇気もなく、この高台から青梅丘陵を眺め、下山することにした。
先刻歩いた大塚山が直ぐ目の前に見える。
説明によれば、ここは以前は三田城と呼ばれていたが、北条氏に追われ、次に入部した北条配下の師岡城と呼ばれるようになった。北条滅亡後、江戸期に入って、この城も廃城となった、との説明である。