ちゃおチャオブログ

日々の連続

四国霊場・高知篇(12)第二十四番最御崎寺境内にて。

食わず芋畑の奥には何かを祀る社もある。

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多宝塔の前には如意輪観音の石仏もある。

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これは嘗ての鐘堂。今は閉鎖されている。

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青銅製の鼎。足が珍しい。

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この最御崎寺(ほつみさきじ)が今日の最後の札所になっていて、後は高知市内にあるホテル坂本の宿にいくだけだから、少し時間的に余裕があるのか、いつもなら本堂と大師堂でそれぞれ心経、真言を唱えて、次の札所に向かうのだが、この寺に関しては、ゆっくり時間を取って、境内を見て回る。と言っても本堂と山門の間はかなり離れていて、そこを往復するだけでもかなりの運動にはなるのだが・・。本来の巡礼はこの山門を潜って本堂に向かうのだが、我々ツァーは裏口のお遍路センターから入ってきたので、廻る順番が逆になった。

徳島にある第二十三番薬王寺から、ここ第二十四番最御崎寺までの距離は、お遍路道の中でも二番目に長い75キロもあって、徳島高知の県境にある東洋町の長い海岸線をひたすら歩いて漸く到着するのだ。1日40キロ歩いても、途中で1泊しないと到達しない。以前元総理の菅直人がパフォーマンスか自己宣伝かで、この長い海岸線をテクテク歩いている姿がテレビに映し出されたが、二日で75キロ歩くにしても、現代人にとっては、大変な労苦だ。その労苦に打ち勝ち、漸く高い段上の山門に到着した時は、お遍路さんにとっては大変な喜び、ほっとした事だろう。

この寺は明治期までは女人禁制で、室町時代には足利尊氏が全国に建立した安国寺の中で、この寺は土佐の安国寺とされた歴史もある。室戸の東寺で、先刻回った西寺金剛頂寺の方が勢力が大きく、この寺も長らく西寺金剛頂寺支配下にあったが、江戸時代になって土佐藩主、山内公の尽力により、漸く支配を脱したようだが、又明治になって神仏分離令で、再び荒廃したとのことである。本堂の横の食わず芋の畑は何時ごろからここにあったのか知らないが、空海は人を救うだけでなく勧善懲悪、悪い人は懲らしめる、という見本の一つとして、代々この場所で耕されてきたようだ。尤も今では芋としては食べられないが、中国などでは薬用として利用もされているようである。ハス芋の茎は水気があって、お汁にしても刺身のつまにしても美味しいものだが、この食わず芋、葉の形は似ているが、毒があって、全く似て非なるものであった。

 

 

音の出る石。不思議な石だ。

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水琴窟のような感じの音が石の内部から響いてきた。

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前方にしっかりした山門が見える。

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75キロのお遍路道を歩いてきたお遍路さんは、この山門を見て、どれ程安堵したことか・・。

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