ちゃおチャオブログ

日々の連続

8.6(木・晴れ)75年目の原爆投下。

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自分の誕生日の1年前の翌日、人類に初めて原爆が投下された。1発の原爆、一瞬の間に15万人の命を奪った。75年前の今日だ。普通の常識を持つ戦略家なら、昭和18年、サイパン陥落時点で、日本が勝てる見込みはないと見ただろう。そもそも山本五十六は最長2年間の戦いで、日米開戦に同意していたが、この時点で既に五十六は戦死していた。

遅くとも昭和20年6月、沖縄戦終結時点で、日本の敗戦は明らかになった。戦争指導部の誰もが、日本は負けると思っていたが、それを口に出す人はいなかった。その敗退に向かう事実を国民に隠し、大本営発表のウソの報道を国民に流し、国民を騙し、恰も日本は負けないかの誤解と錯覚を与え続けていた。そんなさ中の原爆投下だった。歴史にIFはないが、もしもこの6月時点で、日本が敗戦を受け入れ、戦争を終結していれば、原爆の投下はありえなかった。だからこの原爆投下は日本が自ら招いた悲劇である。にも拘わらず、大本営も政府要人も軍人もこの結果に対する責任は誰も取らなかった。一部の軍人、要人に自決をした人もいたが、それは敗戦の責任、国民を犠牲にした謝罪ということではなく、自身が戦争犯罪人として訴追され、極刑にされることを恐れた為のものであり、国民不在だった。

軍部は国体護持の保障を求め、戦争終結を遅らせていた。広島、長崎への2つの原爆投下により、それは敵わないと分かり、無条件降伏した。最悪の結果を選択したことになった。昭和18年時点、或いは沖縄戦が始まる20年4月時点での敗戦受け入れだったら、もっと条件のよい戦争終結が得られたかも知れない。軍刀を下賜された頭の良い軍人はいたが、真の意味の戦略家はいなかった。外務省も同様で、全く明後日の方向のソ連を頼って、和平工作を画策したが、そのソ連終戦直前に日本に攻め込んできた。外務省の誰もこの頓珍漢な政策に対し、責任を取ったものはいなかった。

結局、当時の軍部も指導部も誰も敗戦の責任を取るものがおらず、ずるずると先延ばしし、最後は陛下のご聖断を仰ぐことになった。日本の敗戦は陛下でしか決められないことだった。

戦争が長引いた結果、国民により多くの悲惨を与えたことを理解していたのは陛下自身で、戦後早くの人間宣言、各地の行幸、等々、心の中での国民に対する謝罪行動を繰り返していた。戦前の陛下については余り詳しく報じられていないが、戦後の陛下は一貫して平和主義者であり、国民からも世界の人々からも愛され続けた。その平和主義の理念は平成天皇に受け継がれ、当然ながら令和天皇も同じ理念だろう。

国民の命を預かる政治家のトップ、今で言えば内閣総理大臣になるが、決断すべき時は、自身の毀誉褒貶は脇に置いて、国民第一で判断し、決断しなければならない。今の総理には、自分可愛さが先に立って、国民第一、First Priority Servantとしての意識に欠けている面が見られるが、今日の原爆慰霊祭のスピーチに際しても、冴えない顔つきだった。張りがない。心の充溢が見られない。

 

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