ちゃおチャオブログ

日々の連続

渡り鳥「イカルもどき」。

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その鳥の名前は知らない。鳩を小さくしたような、モズ位の大きさの黒っぽい鳥。何年か前まではモズかと思っていたが、今でも良く分からない。野川センターの学芸員は「いかる」だろう、と言うが、「いかる」は嘴が黄色いが、この鳥は黄色くない。だから「いかる」ではないと思う。法隆寺のある斑鳩の里は、この「いかる」が生息している土地で、この斑鳩という地名が生まれたと聞いている。

 

その黒い鳥「イカルもどき」は春先の2月頃、庭にやってきて、柿の木の枝に止って、首を傾げるような仕草をして、窓越しに自宅の様子を窺う。何かが欲しい、何かの食べ物を催促しているような仕草だ。数年前までは、ミカンの食べ残しとか、パンくずを庭のコンクリートの三和土の上に置いておくと、何分もしない内に無くなっている。どこかで様子を見ているか、空を飛んでいる最中に目の良い鳥は、小さな食べ物を発見し、自分の知らない間に食べてしまうのだろう。

その目の良さは、パンくずを三和土の上の目立つ所ではなく、草に覆われた土の上に放り投げても、食べ物と、そうでないものをちゃんと区別し、ミカンやパンくずなど綺麗に食べていってしまう。人の食べるご飯粒とか、うどんなども食べる。野生の鳥とは言え、人間に同化しているのだ。

数年前から三和土の上ではなく、鳥がやってきたら、煎餅を小さく割って、投げてやることにした。枝に止っている鳥は、その煎餅が空中を舞っている間、咄嗟に枝から飛び来たって、嘴に挟み、別の枝に飛んでいく。煎餅が固く、一度には飲み込めないので、その煎餅を嘴に挟んだまま、枝の幹に打ち付けて、細かく、食べやすいように、コツコツ叩いて、細かくする。その音はキツツキが木の幹を嘴で叩くように軽快で、嬉しそうに、勝ち誇ったように、喜びを表している。どこかの枝で、煎餅にあり付けなかった他の鳥に自慢しているのだろう。その音がしなくなると、又同じ枝の所にやってきて、首を傾げ、物欲しそうにしている。そうして何回か煎餅を放り投げてやると、お腹もいっぱいになったのか、どこかへ飛んでいく。どこかと言っても野川公園の草原だが。

 

鳥の敏捷性は素晴らしい。佐々木小次郎燕返しの早業で、振り切った大刀を燕返しさせるが、この「イカルもどき」も燕のように、投げられた煎餅片を瞬時に捉える。中には機敏でない鳥もいて、空中捕捉しそこねて、落下させる鳥もいるが、そうした鳥は極少ない。勿論取り損ねた鳥は、別の枝に止った後、地上に降り立って、その煎餅片を食べるのだが。

いつも止まっている枝で、自分が中々煎餅を投げないのに焦れたのか、お尻を見せ、背中を向けることがある。その間、当方が煎餅片を投げると、気配とか、空気の振動で分かるのか、サッと向きを変えて、いつのように、パッと空中で捕捉する。又、時々は別の高い枝に止っていた鳥が、ピーと鳴いて、上から飛び降りてきて、横取りすることもある。身体も大きい。

鳥の生態は自分には分からないが、数千年、数万年の進化の中で、目も敏捷性も研ぎ澄まされてきたのだろう。そうして今に生き延びてきたのかも知れない。

鳥にどの程度の嗅覚、味覚があるのかは知らない。煎餅は好んで食べるが、カラムーチョのようなものはそれ程ではない。それからパンケーキのようなものもそれ程好まない。投げても途中で捕捉しないで、落下するケースも多い。その後も地面に降りて食べることも少ない。余程かお腹が空いていれば、食べるかも知れないが。空中を飛んでいて、僅か0.数秒の間に、どうして煎餅とそれ以外の物を区別できるのだろう。驚異的能力と言わざるを得ない。多分煎餅には塩分が多めに含まれているからなのか・・。それともカツカツという音を響かせられないのが、不満足なのか・・。

多い日には朝、昼、午後の遅い時間と、1日何回もやって来るイカルもどきも3月後半からは数も少なくなり、4月に入ると、殆ど来ることはなくなった。野川公園の草原にはまだその姿を見るが、以前よりは数が減っている。4月になってどこかへ行ってしまったのだ。これから暑くなる季節を迎え、もっと北の北海道とかシベリアの方へ行ってしまったのだろう。1日の終わり、日暮れ近くに、最後の鳥が、「ピー」と透き通った声を空に上げて、野川の方向に向かって飛んでいくが、この渡りの最後を告げる笛の声は聞こえない。いつの間にか見えなくなり、いつの間にか来なくなった。それとも3月末の「ピー」が最後の別れの挨拶だったのか・・。

早春の2か月、小鳥との楽しい会話を楽しむことができた。燕ではないが、来年も又待っているよ。

 

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