ちゃおチャオブログ

日々の連続

紀の国訪問記(41)南紀太地の海。

海岸線には所々、小さな集落も見える。海の向こうは太地かどうかは分からないが・・。

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この辺りの人々、古くから半農半漁、すなどりで生計を立てていたのか・・

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全く静かな無人の海が続く。

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漸く西日が沈んで行く。

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太地と聞いて、どれ位の日本人がその地名で鯨のことを思い起こすだろうか。昭和時代の日本人には鯨と言えば門司港を思い浮かべる。暮れの12月、マルハ大洋の捕鯨船団が門司港を出港して南氷洋に向かい、大きなナガスクジラを射止めて解体し、日本に持ち帰る。捕鯨王国日本の象徴だったが、いつの頃からか反捕鯨運動が高まり、日本も年々自粛し、最後は調査捕鯨すらも禁止されてしまった。日本の食卓から鯨料理が消えてしまってからもう何十年にもなる。クジラは一時は絶滅食種になった感もあったが、近年日本がIWCを脱会し、以前ほどではないにしても、鯨の食文化を守りつつ捕鯨を再開したことは、多くの日本人に取っては喜ばしいことだった。

 

そうした過去の船団を組んでの大々的な捕鯨は影をひそめてしまったが、伝統的なクジラ漁、四国沖や房総沖、それとここ南紀太地では、江戸時代からのクジラ漁がおこなわれていて、日本の伝統漁法にもなっていた。当時の漁法からしてクジラと言ってもそれは海岸近くまで泳いでくるイルカのことで、何年か前、米国人監督がこの太地を舞台にクジラ漁の残虐さを訴える映画「ザ・コーヴ」を製作し、世界に配給し大きな波紋を巻き起こしたが、その映画騒動でこの町の名前を知った日本人も多いだろう。しかし日本人の多くはその映画に反感を持ち、殊更意図的に日本人を野蛮人として貶める製作意図に悪感情を持った。自分もそうした多くの日本人の一人である。映画の内容は何であれ、ここ太地と房総の千倉は鯨漁の聖地として日本人には位置づけられている。

 

電車から見える海は波穏やかで、複雑に入り組んだ入江は、一旦ここに入り込んだ鯨は、多数の漁船に取り巻かれて行き場を失い、遂に息絶える。そんな江戸時代から行われてきた漁法を彷彿させた。今晩ここ太地のペンションに決めたのは、この直ぐ近くの荒船の国民宿舎が閉鎖中で、だったら、太地にもっと近い宿にしよう、機会があれば翌日久しぶりに鯨料理でも食べてみようか、という目的もあった。電車は一旦海岸線を離れ、少し陸地を走って直ぐに太地駅に到着した。7時を回っても、本州最南端のこの地区ではまだ外は明るい。駅からは4-5分の場所にある。少し遅くなったが、急いでペンション「ニーチェ」に向かった。

 

入り江に紛れ込んだ鯨、イルカを漁民は集団で囲み漁で捕獲、捕鯨していたのだろう。

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太地で鯨を食べる機会はあるだろうか・・。

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自分には過去3か所の思い出の場所がある。ケニヤモンバサの海、スペインバルセロナ郊外の2月の海、インドカルカッタ南方の海。そのどこの浜辺も、ここと同じように無人の浜辺だった。

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もう後数分で太地だ。

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