ちゃおチャオブログ

日々の連続

函館の三日間(39)函館称名寺通りを歩く。

外人墓地、念仏山地蔵寺から元の道に引き返し、先刻見た高龍寺の前に出る。立派な山門だ。

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本堂の欄間には見事な透かし彫りが施してあった。

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寺町通と船見坂が交わる交差点には蔦に覆われた見事な建物があった。

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ここから元町公園までの6-700mは所謂鉢巻き道路で、ほぼ平坦で助かった。右手に称名寺がある。

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北海道のこの地までやってきて行き倒れた遊女や女郎、北往きさんの御霊を弔っているお寺が、何故か京都の念仏寺と混同して、ここも又念仏寺と思っていたが、正式の寺の名前は念仏山地蔵寺。お地蔵さんをご本尊とするお寺だった。そこら又元来た道を戻って高龍寺まで戻り、改めて参拝し、称名寺通りの角まで下る。函館ドックから登って来た魚見坂はこのT字路の交差点までで、今まで歩いた地蔵寺とかその先の外人墓地までの通りは寺町通りの名前に変わっている。実際この辺りにはお寺が多く集まっていて、寺町の名前に相応しい。自分も過去あちこちの地方都市を歩いているが、多くの町でこの寺町の町名に遭遇している。そこは大概多くのお寺が背中合わせに建っている地区だった。

 

その寺町通と船見坂が接する処がT字路の交差点になっていて、その角に蔦に覆われた古風で大きな建物がある。どこかフランスのアンリバッドを思わせるような造りで、以前の病院か学校跡のようだが、案内も無く不明だ。建物の奥に大きな平坦地があり、どうもここは元の学校で、その平坦地は運動場に違いない。嘗ての小中学校或いは高校が今は廃校になって、歴史の中に佇んでいるようだった。この交差点から先、函館山の裾野を鉢巻きのように横に走る通りが称名寺通りで、この交差点から直ぐ先に称名寺がある。

 

称名寺の名前を聞いても京都の壬生の屯所ほどは有名でなく、相当歴史の好きな人とか、土方歳三フアンでなければ知る人は少ないが、この寺は嘗て新選組が屯所にしていた場所だ。新選組終焉の場所が、この船見坂を下った函館ドックの手前の広場、元の砲台跡であり、先刻その案内板を見てきたが、敗戦濃厚な旧幕軍新選組は、前日に市内で副長土方を失い、そこの弁天岬台場で最後の戦いを挑み、遂に破れ、1か月に及んだ函館戦争は終わりを遂げた。「宮さん、宮さん」の新政府軍は1年かけて東北列藩を全て平定し、この北海道まで乗り込み、遂にここで全国統一となったのだ。

 

称名寺山門から中の境内を眺める。山門から境内までは僅かな石段があるだけだが、足の疲労困憊で、上る気力もない。このそれ程広くはない境内で、京都を追われ江戸まで逃れ、更にその江戸までも追い払われ、その敗走途中の流山で隊長の近藤勇は首を掻き切られた。府外豊多摩の暴れ者集団は天然理心流の腕を磨き、遂には倒れかけた徳川宗家の用心棒にまで駆け上がった。その道場跡は現在も尚府中の野川公園入口近くに保存されている。隊長も副長も組長も失った敗残兵の残党は、この寺に屯していても、それ程意気は上がらなかっただろう。寺の向かいには蔦に覆われた先の建物があったが、そこをアンリバッド、廃兵院と思ったのは、この称名寺の屯所跡を見たからかも知れない。そんな敗残のイメージが入り込んできたのだろう。

 

寺町だけあって、称名寺の並びには更に大きな真宗大谷派の函館別院があって、やや厳めしい門構えをしていた。ここから先元町公園までの約6-700mの道路はほぼ平坦で、歩くのに助かった。綺麗な郊外風の個人住宅が立ち並んでいる。やや高台にあり、見晴らしも風通しも良く、この称名寺通りを起点に幾筋かの坂道が下の市電通りまで下り降りていて、通りの先には函館湾も見える。どことなく異国情緒が漂い、歩いていても、疲れを忘れるようだった。

 

フランス、アンリバッド風の建物の向かいには称名寺がある。新選組の屯所だ。

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幕末、新選組屯所跡の説明書きだ。

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僅かな石段であるが、上るのが大変で、山門の外から眺めるだけにし、先に進んだ。

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称名寺の隣には真宗大谷派の別院がある。

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