ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(20)壱岐・郷ノ浦港出航。

12時半、大型フェリーは郷ノ浦港を出港し、対馬に向かう。

 

港の直ぐ前には3つの小さな島がある。

 

小さな島の名前は大島と言って、綺麗な砂浜のビーチがあって、福岡からも沢山の海水浴客がやってくるそうだ。

 

郷ノ浦の湾に架かる橋が見える。見納めだ。

 

 

1800トンの九州郵船の大型フェリーは時間どうりに郷ノ浦港を出港し、一路對馬に向かった。乗船時間は2時間10分、2時40分の到着予定だ。台風の影響で外洋は少し波が高く、荒れているとの事前の情報だが、これだけ大きな船だと多少の高波でも安心だ。1泊2日、正味1泊1日の壱岐観光だったが、壱岐の概略を掴む為には、ほぼ十分だろう。もう少し見てみたい、行きたい場所もあったが、限られたツアーの中では贅沢は言えない。司馬遼太郎がやって来た40年前とは、それ程大きくは変わっていないだろう。猿岩とか原の辻、多少観光客用に整備されたかも知れないが、当時、彼が見た情景はほぼ同じ形で目にした筈だ。

司馬遼太郎はこの島に限らず、どの地方の「街道」を旅行する際には、出版社の編集員、地元の案内人、解説者等々を従え、何人かのクルーで周っていたので、その土地の名産、歴史、風光明媚など、ふんだんに見聞きすることが出来たが、阪急の一般的なツアーではそのような贅沢は許されない。「街道を往く」は、司馬の書いた歴史観光案内で、どれをミステリー板に仕上げたのは内田康夫の「浅見光彦シリーズ」だ。そうした小説を読んで、旅心に誘われは読者は全国に沢山いただろうし、そうして旅行を思い立った一人が自分だ。

今回は知人の大さんの勧めもあり、事前に「壱岐・對馬の道」を読んでやって来たのだが、この壱岐で特に印象に残っているのは「散村」と「触れ」という、この島独特の集落形態で、ビューホテルでの昼食後、ガイドの大島さんにこの点と頁岩の2つを聞いてみたが、余り知らないようだった。この島で、生まれ育ったとはいえ、30そこそこの若い女性には、江戸時代からの行政割や地質については、それ程の関心はないのだろう。

「散村」はこの島を特徴づける集落形態で、この島が江戸時代以来、平戸藩支配下にあり、集落を分散させることにより、集落間を競争させ、より多くの稲作収穫、石高の増大を図ったようだ。当時も今も長崎は平地が少なく、ここ壱岐が今でも最大の米作地になっている。「触れ」とはお触れ、お触書の意で、今でいう隣組制度。上からの通達を下部に伝達する最小範囲の集落で、今でもこの島には「触」という地名があちこちにある。それにしても分からないのは「沼津」という地名。昨日泊った壱岐島荘の前の道路は郷ノ浦ー沼津ー勝本線という県道だったが、この「沼津」については、更に一考を要する。

 

大島が直ぐ前に見える。小島の大島。ガイドの大島さんが小島神社の説明を思い出す。

 

  • 壱岐の海岸線に沿って北上する。この辺りは「沼津」の触だろう。

     

    外洋は荒れると事前に聞いていたが、今の処はそれ程でもない。半島の先は猿岩辺りか・・。


    船内のモニター、対馬・厳原到着予定は14時45分と出ている。