ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(22)対馬・厳原(いづはら)到着。厳原と沼津。

2時間10分の航海で、漸く對馬、厳原港に到着した。

 

大きなビルも見える。官公庁か・・。

 

丘の上にも大きな建物が見える。

 

 

郷ノ浦からのフェリーは1800トンもあって、充分大きく、海峡は白波も立っていたがそれ程揺れることも無く、2時間10分の航海は船酔いすることなく対馬厳原港に到着した。対馬の方が壱岐よりも島が大きく、人口も多く、港湾は立派な印象だ。江戸時代ここは対馬藩が一島全体を藩領としていたが、本土の平戸藩の領地であった壱岐とは、島民の気位も違っていただろう。今日午前、壱岐の観光バスの大島さんも言っていたが、二つの島は隣接しているが、島民同士の仲はそれ程良くはなく、又、行き来もしていなかった。同じ離島に住んでいる者同士、どちらの島に行っても、同じような景色しか見られないと思い、観光の魅力を感じなかったのかも知れない。

厳原と書いて、イヅハラと読む。イズハラとカナ表記されることもある。嘗てはスとツの区別はそれ程なかったようだ。江戸時代の対馬藩、宗家の城下町で、今でもそうだが、江戸時代を通して対州(たいしゅう)と呼ばれていた。地元資本の対州開運の大型フェリーがこの厳原と博多の間に運行されている。対州という名前はこうした形でも残されているのだ。嘗ての魏志倭人伝にもこの島は対馬国として記載されていて、最初の倭国の紹介で次に一支国壱岐)が続いている。朝鮮半島倭国の間に位置していて、「対」は英語でいうペア、二つのものを結ぶもので、対面、対極、対談、対峙、等々良く知られた言葉で、「対馬国」という名前は魏使がやってくる以前から倭国に於いて使用されていたのだ。

ここで再び沼津の地名に戻る。沼津と言えば、静岡県の沼津を指し、全国でも壱岐島の郷ノ浦に隣接する嘗ての沼津村の2カ所しか無い。狩野川の河口近くにある沼津市は、戦国時代の末頃よりそう呼ばれるようになったが、壱岐の沼津村の起源については定かでない。自分が思うに、これは空想、小説の世界になるかも知れないが、そこにはタイのアユタヤ王国で活躍した山田長政が介在しているのではないかと。戦国時代末、彼は沼津の駕籠かきで、どんな具合にタイに渡ったのかはっきりはしていないが、何らかの貿易船なり倭寇船なりに乗ってマカオにやってきて、そこから又南蛮船に乗ってアユタヤまでやって来たと言われている。それらの中には平戸船もあったのではないか。国姓爺合戦で有名な鄭成功は平戸の出身だ。平戸を根城とする松浦党は、海運海戦に長けていて、倭寇の一派とも言われていた。長政と親交のあった松浦党の何人かが、当時平戸藩領となっていたこの壱岐に移り住み、その土地を沼津と称した・・。鄭成功自身が台湾に移り住み、大陸の王朝明を称したように。その沼津の隣、伊豆半島伊豆国も不思議な地名だ。合併前の厳原の村落の中には豆酘(つつ)という村もあった。

沼津はヌマヅだが、伊豆はイズだ。ツとス、いよいよ分からなくなってきた。

着岸までに暫く待たされ、漸く下船の時間がやってきた。郷ノ浦と同じようにフェリーターミナルビルの4階にタラップで渡り、1階まで下り降りた。韓国からのお客さんが多いせいか、ハングル文字も目に付き、どことなく異国の雰囲気もある。現在この島は長崎県に属しているが、距離的近さ、或いは経済的結びつきは、長崎よりもむしろ福岡に近く、この厳原港にしても、郷ノ浦にしても、フェリーや高速船の多くは博多港と繋がっている。稀に島のどこかの港から、唐津や平戸への航路もあるようだが、それは本数も少なく、利用者もごく少ない。いずれ廃航路の憂き目にあうかも知れない。

 

さて、下船のタラップが近づいてきた。

 

ターミナルビルの外にはハングルも見え、どことなく国境の港へ来た感じだ。

 

フェリーターミナル前の駐車場。ここからは歩いて金石城に向かう。