今日の八王子城址、搦め手の裏側から登山を開始する。
少し道草をし、清滝を見に行く。
林間に見える清滝。
滝は冬枯れで、水滴がツララになっていた。
登り始めて約2時間、漸く頂上直下の見晴らし台に到着する。
ここのところ毎週のように八王子城址公園に行っている。ここは国の史跡公園になっているが、公園との名前は付いてはいるものの、実際は街中にある庭園のようなものではなく、ちょっとした小山だ。
この小山に登るようになったのは、歳と共に膝の痛みが増してきて、以前は100名山など駆け足で登るようにしていた健脚も、若い頃ハードに使い過ぎたのか、ここ数年急に衰えてきて、この近くにある高尾山600m程の小山にすらしんどさを感じるようになり、それよりは大分低いこの山で満足している次第である。同行の二人との関係で、毎週土日のいずれかの1日を当てているが、軽いハイキング程度だから、天気が悪ければ取り止めにし、至って気楽な休日の山歩きだ。
今日は同行の山さんの案内で、山の裏側の杣道、松下から登ることにした。ここにはかなり大きな滝もあり、本道から外れた谷合までの間、途中の杣道には倒木などが通行を妨げ、ちょっとした秘境探検の雰囲気だ。冬枯れで、滝は凍てつくツララに覆われていたが、水量豊富な季節に来れば、豪壮な滝の飛沫を見られるだろう。
山道を登ること約1時間、杉林から檜林に代わり、漸く峰道に出て、いつものコース、御主殿横から登ってくる登山道と合流し、更に20分、山頂に到着する。今は八王子神社とその上の牛頭大王の祠しかないが、ここが嘗ての八王子城の本丸跡だ。
標高445m、関東平野のトバ口にあるこの山の頂直下からは関東平野を一望でき、好天の今日は、左に筑波山、やや右正面に新宿、お台場の高層ビル街の更に向うに、東京湾の海面に浮かぶように、房総の山並みが薄らと浮かんでいた。この山城は天下分け目の関ケ原の戦いの始まった凡そ10年程前、豊臣秀吉軍による関東仕置き、小田原征伐の際に落城したもので、以後、江戸時代を通し廃城となったものである。
当時の小田原北条家は関東一円を領有し、小田原本城を守るべく関東各地に支城を持っていたが、ここ八王子城は、三代氏康の三男、氏照が城主として豊臣連合軍に対する防衛に当たり、直ぐ近くの滝山城との連携によって本来は強固なものであったが、氏照が小田原本城を守るため、有力武将を引き連れて小田原に行っている間、上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの軍勢によりあっけ無く落城した。その際、城兵、婦女子等3000余人が落命したとも言われている。
それから400年、この山城の有用性が見直され、日本100名城の一つにも選ばれることとなり、今現在文化庁の主導で旧城館の復元工事なども行われていて、平地にあった御主殿、跳ね橋、空堀、等々旧に復しつつある。現在はまだ鬱蒼とした林の中に埋もれている三段組の石垣など、往時の山城を彷彿させるものがあり、その築城思想は赤坂千早城を思わせるものもあった。
つわものどもの夢の跡。人は何のために戦ったか、戦わざるを得なかったか。家の為、家族の為、自分自身の名声の為。数多の血を吸いこんだこの土地に、今石仏が並んで立っている。北条遺臣の与力によるものだが、こうして御仏を眺めていると、400年前の平和な情景、その後の阿鼻叫喚、散り散りになった人々とその後の結集、等々が目に浮かんでくる。清らかな石仏の前には誰が捧げたのか、仏花がひっそりと添えられていた。
< 石仏や 鱗樹の下に 四百年 >
この小山に登るようになったのは、歳と共に膝の痛みが増してきて、以前は100名山など駆け足で登るようにしていた健脚も、若い頃ハードに使い過ぎたのか、ここ数年急に衰えてきて、この近くにある高尾山600m程の小山にすらしんどさを感じるようになり、それよりは大分低いこの山で満足している次第である。同行の二人との関係で、毎週土日のいずれかの1日を当てているが、軽いハイキング程度だから、天気が悪ければ取り止めにし、至って気楽な休日の山歩きだ。
今日は同行の山さんの案内で、山の裏側の杣道、松下から登ることにした。ここにはかなり大きな滝もあり、本道から外れた谷合までの間、途中の杣道には倒木などが通行を妨げ、ちょっとした秘境探検の雰囲気だ。冬枯れで、滝は凍てつくツララに覆われていたが、水量豊富な季節に来れば、豪壮な滝の飛沫を見られるだろう。
山道を登ること約1時間、杉林から檜林に代わり、漸く峰道に出て、いつものコース、御主殿横から登ってくる登山道と合流し、更に20分、山頂に到着する。今は八王子神社とその上の牛頭大王の祠しかないが、ここが嘗ての八王子城の本丸跡だ。
標高445m、関東平野のトバ口にあるこの山の頂直下からは関東平野を一望でき、好天の今日は、左に筑波山、やや右正面に新宿、お台場の高層ビル街の更に向うに、東京湾の海面に浮かぶように、房総の山並みが薄らと浮かんでいた。この山城は天下分け目の関ケ原の戦いの始まった凡そ10年程前、豊臣秀吉軍による関東仕置き、小田原征伐の際に落城したもので、以後、江戸時代を通し廃城となったものである。
当時の小田原北条家は関東一円を領有し、小田原本城を守るべく関東各地に支城を持っていたが、ここ八王子城は、三代氏康の三男、氏照が城主として豊臣連合軍に対する防衛に当たり、直ぐ近くの滝山城との連携によって本来は強固なものであったが、氏照が小田原本城を守るため、有力武将を引き連れて小田原に行っている間、上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの軍勢によりあっけ無く落城した。その際、城兵、婦女子等3000余人が落命したとも言われている。
それから400年、この山城の有用性が見直され、日本100名城の一つにも選ばれることとなり、今現在文化庁の主導で旧城館の復元工事なども行われていて、平地にあった御主殿、跳ね橋、空堀、等々旧に復しつつある。現在はまだ鬱蒼とした林の中に埋もれている三段組の石垣など、往時の山城を彷彿させるものがあり、その築城思想は赤坂千早城を思わせるものもあった。
つわものどもの夢の跡。人は何のために戦ったか、戦わざるを得なかったか。家の為、家族の為、自分自身の名声の為。数多の血を吸いこんだこの土地に、今石仏が並んで立っている。北条遺臣の与力によるものだが、こうして御仏を眺めていると、400年前の平和な情景、その後の阿鼻叫喚、散り散りになった人々とその後の結集、等々が目に浮かんでくる。清らかな石仏の前には誰が捧げたのか、仏花がひっそりと添えられていた。
< 石仏や 鱗樹の下に 四百年 >
本丸直下にある八王子神社。牛頭大王と八人の王子が祀られている。
神社横の松木曲輪にある慰霊碑。
5合目、金子丸付近の林の中に建つ慰霊碑。
昭和の初め、日蓮宗の盛んな頃に遺臣により建立された。寄進者の名前が刻まれている。
氏照がこの城を築城した際、小田原から運んできたと言われる「鱗樹」。樹木の幹が鱗のような外皮に覆われていて、ここ八王子城址のやぶの中でしか見られない。
麓の御主殿から山頂の本丸に通じる嘗ての大手道。
400年前の石垣が雑木林の中に埋もれている。
三段構えの野面積みは甲斐武田亡き後、武田の家臣団が北条に与力し、築城された。
武田の遺臣、石工はこの山中のこれ等の大石を切りだして、野面積をした。
御主殿跡は現在文化庁により発掘調査、修復作業が行われている。
一旦掘り起こされた遺構は再び埋め戻され、その上にレプリカが置かれることになる。
遺構からはこの様な調度品が多数発掘されている。
これ等の遺品は、つい最近完成した資料館に展示されている。