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日々の連続

中国・歴史の旅(93)江都、江南。

中国江南地方の大動脈、京杭大運河の掘削経緯が図解されている。
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随、唐の時代、この辺りは「汴州」と呼ばれていた。
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唐、三彩馬などの展示もある。
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「三賢祠」。李白杜甫、高適の三人の賢人がこの地に会した記念堂。
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この街の城壁は外敵を防ぐと同時に、黄河の氾濫、水害からも街を守っていた。
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南船北馬」という言葉は、中国の南北の土地を表現するのにぴったりの言葉で、黄河から北の荒涼とした乾燥地帯、それに対し、南の緑陰水明の地。いつの頃からこの言葉が使われるようになったのか、寡聞にして知らないが、相当古い時代、春秋戦国の時代から既に膾炙していたと思う。

隋の煬帝が天下を統一し、南の豊富な湖沼を利用して、国の東西南北の流通を促進する為、100万人の人民を動員して大運河を掘削したのは有名な話であり、随帝国はこの大運河掘削に要した出費と、2度にわたる朝鮮出兵とで、国が疲弊し、僅かな期間で王朝は崩壊し、次の唐宋に引き継がれて行く高度な中国文明の礎となった。

去年杭州を旅行した折り、この大運河の一部を為す京杭大運河を大きな太鼓橋の上から眺めたが、掘削から1200年も経た今でも江南地方の重要な物流の動脈となっていることには大いなる感動を覚えた。今、この開封博物館で、その掘削大事業の跡を追うことができた。

今ここに掲げられている案内図を見るに、最初の掘削は584年に長安ー洛陽間に開通し(渭水)、次に605年、洛陽から揚州(江都)までの長大な運河が開通(汴水)した。その時、ここ汴州(開封)が重要な中継地点となった。その後608年には洛陽ー北京間が完成し(通済渠)、最後に610年、揚州ー杭州間が開通し(江南河)、南北2500キロを越える大運河が1本に繋がったのだった。

万里の長城と大運河。1000数百年前の中国が今でも世界に誇れる一大構築物が一方は中国の有数な観光資源として、他の一方は国内の重要な舟運として、現在に生きている。
 
 
 
 
「鎮河鉄犀」。黄河の氾濫を鎮める為、鉄の犀を川に沈めた場所。
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明末水患。明末の頃、農民軍、李自成を攻める為、官軍は黄河を決壊させ、開封(当時は会城市)を水没させ、城内に住んでいた37万有余人の内の30万人を溺死させた、水患。
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その後町は見事に復活し、文化の花が開いた。
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見事なものだ。
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「林公堤」。この開封近くの黄河に、清末の高級役人、林則徐がこの場所に砲台を作り、河を遡上してくる外国船を打ち払った。
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