ちゃおチャオブログ

日々の連続

江南周遊(33)京杭大運河。

これから京杭大運河を見る為に石段上の石橋の上に登って行く。
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ああ、3年ぶりに見た大運河。
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ここは蘇州と違って、両側に人家が密集している。
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この先ずっと2000数百キロ、この運河は北京まで繋がっているのだ・・。
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さて、いよいよ京杭大運河にやってきた。遥かな昔、隋の煬帝が当時の都、洛陽から杭州までの運河を建設し、その後、北方北京方面への建設途中、北朝鮮高句麗との戦費も嵩み、隋王朝自体が潰えてしまった。しかしその後の歴代王朝によって、計画は引き継がれ、現在みられるように、北京から杭州までの約2500キロの大運河が完成している。後世に残る大事業であり、中国人流に言わせれば、宇宙から地球を見た際に、人工の構築物と認識できるのは、この京杭大運河と万里の長城の2か所だけだと自慢しているが、今その大運河の橋の上に立っている。

中国の国土は日本の26倍からあり、広大な面積を有しているが、総距離2500キロと言ったら、流石に長い。日本列島の青森から下関に至る程の長距離の運河で、物流、人の移動はこの水上交通によって大いに促進されただろう。この2500キロの間には黄河揚子江、二つの大河を横断し、周辺には歴史的にも有名な都市が幾つもある。ここ無錫もその内の一つで、太湖に繋がる重要な中継点になっている。

清の時代、乾隆帝雍正帝をはじめとして、多くの皇帝はこの運河を利用して、北京から江南の地にやってきた。古くは遣唐使の時代、日本の使節や僧侶なども、この運河の端っこ、寧波に上陸し、この運河を利用して揚州まで至り、そこから都の長安を目指して行った。波風や防風雨の無い運河だから、危険の少ない移動だったに違いない。

階段状の石橋の上から1400年を経た大運河を見る。戦争、騒乱、飢饉、豊穣、入船出船の往来。今は行き交う船も疎らだが、陸上交通が整備される以前は、この大運河がこの地方の大動脈であった。運河沿いに家並が並んでいる。何世代かに渡って、家は建て替えられ、中の住人も代わっているだろうが、この光景は多分1400年前とそれ程は変わらないだろう。幅広の石橋の上に立って、眼下の運河を眺めると、歴史の一場面に立ち会ったような気分にもなる。

数年前、蘇州で見た時の運河はここよりももっと幅広で、大きな川のような感じだったが、ここ無錫では人家が運河間近に押し寄せていて、幅は随分と狭く見える。と言っても、日本の松江や柳川、佐原辺りの運河と比べると、けた違いに大きいのだが・・。そうだ、日本のは運河というよりは、水路、クリークと言った方が当たっているだろう。この大運河こそ、物流を担う運河と呼ぶに相応しいのだ。



3年前、蘇州で見た時は、橋の袂の青年余暇倶楽部のレストランで昼食を食べたが・・。
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行き交う船は少ないが、今でも流通の経路として利用されている。
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運河沿いに再開発された区画があり、記念館なども建っている。
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ちょっとしたショッピングエリアにもなっているが、観光客は少ない.
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運河沿いに再開発された区画があり、記念館なども建っている。
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