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日々の連続

江南周遊(36)大運河清名橋。

運河にかかる大きな石橋の名前は「大運河清名橋」と呼ばれている。

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名前の謂れ、建設にかかわる事跡等が解説されている。

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橋に隣接する施設。

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京杭大運河に架かる大きな石橋。先刻渡る時は気が付かなかったが、帰りに橋の袂を見ると解説文があって、この橋の名前は「大運河清名橋」という。「セイメイ」で思い出すのは以前訪問した開封市の「清明上画図」の景色で、嘗ての汴京(べんきょう)、北宋の首都で当時の世界最大の都市で、ここ無錫を流れる長江の上流に当たるが、そこも又水の都で、今見る「大運河清名橋」よりも大きくて立派な石橋が何橋もあった。

 

北宋を滅ぼした蒙古、後の元の時代、マルコポーロが当時の燕京、今の北京にやってきて、河川に架かるアーチ式の石橋に強く感心し、その石組みの製法をベネチアに持ち帰ったが、中国のアーチ式石橋の伝統は今に生きている。又熊本菊池の水道橋を作ったのは近江坂本の石工衆、穴太の一族とも言われているが、彼等が中国の戦乱を避けてこの地にやってきたのは、大いに考えられることだ。今の日本では機械化が進み、そうした石組みの技術は廃れつつあるが、中国では今でもこうして立派な技術が継承されている点は、日本も見習うべきかも知れない。

 

ここ無錫の石橋が「清名」であって、歴史的にも有名な「清明」ではない理由は、多分解説文に記載されていると思うが、ツアー旅行で時間もなく、且つ簡体字の中国文を理解するのは時間がかかり、読むのは諦めて写真だけ撮って、再び太鼓橋の坂を上って橋の上に立ち、もう一度この大運河を眺め、バスに戻る。これからツアーバス無錫市内を通り抜け、市の反対側にあるもう一つの観光スポットに向かうのだ。

 

自動車専用道路は無錫市内の中心部を横断するように通り抜けるが、道路の両側にはあちこちの大きな建設サイトで正に雨後の筍のようににょきにょき高層ビルが建設されている。数年後には上海や香港を追い抜くかのような勢いだ。大変なエネルギーである。中国が左前になりつつあると巷間言われてはいるが、こうした光景を見る限り、まだまだ息は長い。

 

この地方都市の無錫ですら人口は500万人。横浜名古屋大阪よりも大きい。無錫のある江蘇省の総人口は約8000万人、隣接の上海が約3000万人。合計すればほぼ日本と同じ位の人口規模になる。マルサスが人口は富であり、力の源泉と指摘したのは、今の中国、ここ無錫や上海の現状を見ていると、大いに納得できるものである。

 

清名橋は太鼓橋になっている。(往路の際の写真)

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再び無錫市内を通り抜け、反対側の観光スポットに向かう。今市内は建設ラッシュだ。

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東京にもないような超高層ビル群だ。

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