ちゃおチャオブログ

日々の連続

補陀落渡海への旅(118)越王䑓にて。

越王䑓。ここは是非か訪ねなければならない。
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庭内に参詣者は誰もいないが門扉は開けられている。
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前方に「越王殿」が見える。守衛も管理人もいないが、無断侵入には当たらないだろう・・
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ああ、張りつめた気が䑓内を支配している。
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一体中に何が展示されているのだろう・・
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ああ、「古越龍山」。こんな文字で書いていある。さあ、登殿しよう。
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殿の正面に越王勾践の像。下に「臥薪嘗胆」と書かれている。
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目的も無くぶらぶら街歩きする楽しみの一つは、思わぬ場所に思いもよらない珍しい物を見付けたり、全く想像外の物を発見した時の喜びであるが、今まさに出くわしたものがこの「越王䑓」だ。中国の歴史上で「越王」と言えば「勾践」のこと。越の国、即ちここ紹興は勾践に始まり、勾践に終わる。昨日今日の1日半の街歩きで、既に何回も勾践の事跡に遭遇した。ここにその集大成「越王䑓」があるとは!

庭内に足を踏み入れようとして一瞬戸惑った。何故なら、この広い庭園の中に人影が全く見えないからだ。これだけ著名な場所で、紹興市民からも慕われている越王勾践の廟に誰も参詣に来ないとは? それにしても門扉は開けられていて、入䑓禁止の立札もない。偶々今は何等かの事情で参詣客が途絶えたのだ、と勝手に解釈し、入䑓する。

誰もいない。この広い䑓内に参詣客はおろか、管理人すらいない。ただ1本の参道が真っ直ぐ高台にある越王殿に向かって伸びているだけだ。左右の木立には鳥すらも棲んでいないのか、鳴き声も聞こえない。ぴん、とした静寂が張りつめているようだ。この䑓内には勾践の精神、「臥薪嘗胆」、の気が満ちているのか・・。

木陰から管理人か誰かが突然ぬっと現れて、入園禁止を言われるかも知れない、誰にも断らず勝手に入り込んできたことを咎められるかも知れない、との緊張感が、却ってこの䑓内の気を高めているのかも知れないが、漸く何事も無く越王殿に到着した。この越王殿も新しい建物だ。中国各地の歴史的建造物は、1960年代に吹き荒れた紅衛兵により大半が打ち毀され、その後中国経済興隆と共に再築されたものが多いが、この越王殿もその一つだ。

正面に越王勾践の絵画と肖像画があり、「臥薪嘗胆」と記されている。我々日本人で勾践について知っていることと言ったらこの「臥薪嘗胆」しかないだろう。いや、それは現代中国人にとっても同じ事かも知れない。「薪の上に座すこと3年、胆を舐めること(嘗胆)数十年」、越王勾践は遂に宿敵呉王夫差を打ち破り、覇権を確立したのだが、この故事は今から2500年の前の春秋戦国時代の史実である。爾来連綿として現代に伝わり、それは中国国内のみならず、日本や韓国、その他中華文化圏の世界へ広く伝えられている。

一人の偉大な英雄、勾践を偲び、越王殿の階から参道を眺めていて、先の芭蕉の句「象潟や雨に西施が合歓の花」をはたと思いだした。それは勾践の肖像画の横に「越大夫范蠡(はんれい)」の肖像画があり、彼こそは勾践に進言し、西施を呉王夫差の元に送り届けた人物だ。

芭蕉が梅雨の頃訪れた象潟には有名な古寺「干満寺」がある。これは慈覚大師円仁が唐より帰朝後東北各地に建立した古刹の一つで、芭蕉の上の句は、実にこの「干満寺」の境内に咲く緋合歓を見て詠んだのだった。そうだったのか・・。円仁は五台山で修業し、その後、帰朝に際してはここ紹興を通り寧波から出航した。その間、天台山にも寄っているかも知れない。「入唐行記」(入唐求法巡礼行記)は最初だけ読んで、後は放棄してしまったが、旅好きの芭蕉はこの円仁の旅行記を読み知っていたのかも知れない。だからこそ、円仁創建の干満寺に於ける緋合歓と西施が結びついたのか・・・。緋合歓と西施の結びつきが分からなかった深い謎が解けたような気がした。
 
 
 
 
2500年前の王宮の図だ。
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越王勾践の肖像画だ。
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ああ、宰相、越大夫范蠡肖像画だ。・・そうだったのか・・
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越王殿の階から参道を眺め、今見た范蠡(はんれい)の肖像画を想い、はたと芭蕉の句、合歓と西施の結びつきが理解できるような気がした。
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「古柏化石」とある。2500年前の勾践の頃の柏の幹なのか・・。
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ああ、古木(柏)が高々と伸びている。
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ああ、この庭内にも合歓の大木があるではないか! 矢張り・・
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