ちゃおチャオブログ

日々の連続

ラオス北部紀行(45)ジャール平原と辻政信。

第1サイトの丘からは広々したジャールの平原が見渡せる。
 
 
 
辻政信も嘗てこんな場所に立って平原を眺めただろうか・・
 
 
 
新しい人家、新しい居住者も移住してきているようだ。
 
 
 
学校のような、校舎のような建物も見える。
 
 
 
人々はどんな生活をしているのだろう・・
 
 
 
近くの丘には投下爆弾の大きな穴が開いている。
 
 
 
 
 
第1サイトの丘の上から起伏に富むジャール平原を眺めていると、一人の人物を想起せざるを得ない。自分がまだ小学高学年か中学に入りたての頃と思う。元軍人で参議院議員でもあった辻政信が、ラオスのこのジャール平原で消息を絶った、とのニュースである。参議院議員がどうして一人でそんな地へ行ったのか? 又、日本の議員ともあろう人が、行方不明になるなんてことがあるだろうか・・。現地大使館なり、現地政府は一体何をしているのか、と。

日本の国会議員がラオスで消息を絶ったニュースは暫らく続報が出たが、その内、全くニュースネタで無くなり、人々の記憶の中からも忘れ去られていった。自分自身が再びこの辻政信について知ることになったのは、かなり後年になってからで、大学の頃、時間があったので、歴史本など読んでいて、太平洋戦記などにしばしばこの人物が登場した。

シンガポール攻略戦の山下大将(当時は中将か)とイギリス防衛軍、パーシバル将軍との「Yes or No」の談判は、小学生の胸にも強く印象づけられ、我が帝国陸軍の勇猛果敢な戦いに、血沸き肉躍る思いで、戦記物を読んでいたが、その銀輪部隊の作戦を考え、実行に移したのが、当時参謀本部作戦課にいた辻政信であったとは、後年知ったことだった。

彼は陸大トップの成績で、恩賜の軍刀をも拝領した陸軍きってのエースであったが、その自負心が災いしてか、功名に走ったのか、シンガポール奇襲攻撃以外の作戦にはかなりの無茶、無理難題を押し付け、現地司令官、同僚、兵士から顰蹙され、恨みを買い、怨嗟すら受けていた。太平洋戦争が始まる以前のノモンハンの敗戦隠し、その後の敗残兵の処遇、ガダルカナル攻防戦での無残な戦い。兵器弾薬が底を尽き、尚継戦を声高に命令し、食料も尽きた兵士を餓島に置き去りにした。

兵士を虫けらのように戦場に使い捨てにし、にも拘わらず自身は安泰に終戦を迎え、戦後のパージ、公職追放が解除された暁には、誰が言いだしたのか知らないが「作戦の神様」との称号を奉られて、海軍参謀の源田実と共に参議院議員に収まっていた。今の日本は靖国問題を論ずる以前に、こうした旧弊、権威、権力の座に収まっている人間にいつまでも迎合する体質を改めなければならなかったし、一人の人間として功罪を問うべきだった。

しかしこうした事どもは後年知ったことであったし、小中学生の自分には、このラオスのジャール平原の地で、彼がプッツリと消息を絶った理由なり、背景は全く思い至らなかった。今回の旅行直前、古くからの友人の一人と飲む機会があり、今回当方がジャール平原を旅行する予定を話したら、彼はすぐさま乗ってきて、歴史好き、政治好きの彼にとっては、辻政信は恰好の題目で、当時、この地はベトナム独立闘争の影響下にあり、このジャールもそうした独立運動、ゲリラ、紛争の真っただ中にあり、血の匂いに飢えた辻は、敢えて、好き好んでこの地へやって来たのではなかろうか、とのことだった。彼は松本清張張りの推理を働かせ、辻はこの地に於いて既にゲリラの一群に拉致され、殺され、どこかに埋められていると。

丁度同じ頃、マレーシアのキャメロンハイランドでタイのシルク王と言われたジム・トンプソンが、ある日突然散歩に出たまま帰って来ず、ぷっつりと足跡が消えてしまい、大騒ぎになった行方不明事件があったが、その後、トンプソンも辻同様、死んだとも生きているとも分からず、当然ながら、遺体も発見されていない。彼は又CIAの元要員でもあった。

辻にしてもトンプソンにしても今生きていれば100歳以上の歳になる。彼等が消息を絶ってから既に50年以上の歳月が経つ。この第1サイトの丘から見える範囲のどこかの土中に埋められているかも知れないし、この少し先、ベトナムの国境を少し入った先はビエンビエンフーだ。彼は又そこでベトナム共産党軍と一緒になって戦ったのか・・。この穏やかな波打つ丘陵を見ていると、この地で、そんな生臭い戦いがあったなどとは、露想像もできないことだった。
 
 
 
 
足元にはこうした地雷の危険表示が埋め込まれている。
 
 
 
しかし今はどこを見ても平和だ。
 
 
 
こんな田舎でも携帯電話が通じている。
 
 
 
辻政信を想い、記念の写真を撮る。
 
 
 
足元の花は何も語らない。
 
 
 
ジャール平原、次に来るときはいつになるだろうか・・