ちゃおチャオブログ

日々の連続

トルコ史跡巡りの旅(42)Topkapi Sarayi(トプカピ宮殿)。

ガラタ橋を渡り、市内を走り抜けてトプカピに向かう。ああ、フェリー埠頭の前を通っている。
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イスタンブル市内電車、ㇳラム。モダンだ。ドイツ製?日本製?
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今回ツアー最後の訪問先、トプカピ宮殿にやってきた。
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Topkapi Sarayi,「トプ」は「大砲」、「カピ、カプ」は「門」、「サライ」は「キャラバン・サライ」のサライと同じで、「館、宿、宮殿」を意味する。日本の月刊誌にも「サライ」ってありますね。
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宝物館の中は撮影禁止で、外の建物等を撮影。
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ギッシリと詰まったトラピックスのツアー、今日の夕方にはイスタンブル空港より成田に向け飛び立つが、その最後の日まで自由時間がない。本当は、日本の技術によりアジア大陸とヨーロッパ大陸ボスポラス海峡の地下で結び、数か月前安倍総理もトルコまでやってきて、その地下鉄開通式に臨んだが、機会があれば自分も日本製の地下鉄に乗って見たかった。日本の技術を誇りに思い、トルコに於ける日本の足跡も確認したかったのだ。今回三郷さんにトルコ旅行を誘われた際には、この地下鉄乗車も頭をよぎった。

その海峡を結ぶ地下鉄は、今日これから向かうトプカピ宮殿の地下を通っている。ここは旧市街の海峡に面する出っ張りの上に建っていて、三方に睨みを利かせている。即ち正面のボスポラス、右手のマルマラ海とそれに続くダーダネルス、更に左手には、ガラタ橋のある金角湾。この街の臍の位置にある。と言うか要の位置だ。オスマンは好位置に王宮を構え、アジアとヨーロッパ、両大陸を睥睨していた。

広い前庭を歩き、王宮に向かう。45年前の記憶は殆ど跡形もないと言って良い程、消えてしまっている。海峡に面した王宮。丸いドームの屋根の前庭から海峡を往来する船舶を眺めた。輝くばかりの宝玉の数々を目にした。映画の確か、シャレードか、いや違う、あれはその名ズバリの「トプカピ」だ。その映画のシーンとダブって思い出される。まあ、記憶なんてそんなもの。手に取って見ようとしても、手の上に載せることも出来ないのだから。それよりも、今現実に目にしているこの宮殿をしっかりと見ておこう。

ツァーメンバーは思い思いに宮殿内を散策する。前世紀までの約500年間、オスマン帝国の帝王の居城であり、且つ行政府でもあった。ここからヨーロッパ、アジア、アフリカの当時の世界のほぼ三分の一を支配した世界帝国の王城だ。しかしそれにしては戦略的な厳めしさはなく、どこか女性的な優しさがある。それはアラブ特有の後宮制度にあり、数十人から数百人の後宮妻をハーレムに住まわせ、ここで毎夜千夜一夜の物語が繰り広げられていたからに他ならない。数百人の宮女に従う数千人の侍女。そうした女性の多さがこの王城を戦いの城からおとぎの城に作り替えているのだろう。

宮内をぐるっと回り、最後に「宝物館」に向かう。世界の宝玉が集められ展示されている場所だ。世界一大きなダイヤモンド。そうそう映画「トプカピ」では確かこの大ダイヤモンドを天井からロープで下り降りた犯人が盗んでいったのだ。赤ん坊のこぶし程もある大きなダイヤは英国王室が所有しているものよりも更に大きく、86カラットもあり、鈍い照明のなかで数えきれない程の多面体カットで光を放っていた。うーん、これではドロボーがここから上手く持ち出せたとしても、処分する所はないだろう。トルコ経済が幾ら下火になたっとしても、この宝物館が手つかずで残されている以上、トルコは安泰だ。

ふーっと、ため息の出るような数々の宝物を眺め、一体、如何程の富がこの200㎡にも満たない小さな部屋に集合しているのかと、想像を絶するものがあったが、何時までもここに留まっていることも出来ない。時間の制約もある。皆で誘い合って宝物館の裏側の海峡に面する高台に出て、海峡を渡る風を受ける。快晴の海峡を今日も又貨物船、運搬船、フェリー、漁船等々が往来している。騒音はここまでは響いてこない。海峡はもう既に早春だ。川風が柔らかい。
 
 
 
 
流石ハーレムの国。女の館が、広い面積を占めている。
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黒人奴隷の宦官。宦官は中国人だけの特許ではなかった。唯一、日本だけは導入しなかった。
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行政府はどこにあるか分からないが、ハーレムだけはあちこちある。
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細密画、ステンドグラスが綺麗だ。
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宝物館の裏に出て、ボスポラス海峡を望む。
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旅で知り合った関野さん、黒旗さんとの最後の記念写真。
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