ちゃおチャオブログ

日々の連続

ルソン山紀行(50)ビガンは「美顔」。就職説明会に集う「美顔」の大学生。

ビガン焼き物市場を出て、中央広場に向かて歩いて行く。
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ああ、ここにもIglesia Ni Cristoの教会が建っている。北部にはこの宗派が多いようだ。
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この街路樹は、何という花だろう・・・。
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ああ、ここは市か国の行政府の建物だ。
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ブルゴス記念学校。・・ブルゴス、BURGOS・・。この町の英雄だ。
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旧市街の中央広場、ブルゴス広場に近づいてきた。
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ビガンは英語表示ではViganと書く。英語と言うか、スペイン語かも知れないが・・。漢字では「美顔」と書く。これは日本語だ。中国沿海地方の潮州語が「美顔」をどう発音するか知らないが、「美」を「ビ」と発音するのは日本語に限られるだろう。従ってこの「美顔」は日本人が名付けた表記と考える。

この町は日本人には余り知られていないが、日本とは関係の深い町である。古くは、安土桃山時代、まだスペインがこの町を支配する以前から貿易船がやってきて、この町の産物を買い求め、日本へ輸送した。同じ頃か、それ以前、中国の船もやってきて、交易をした。ここにはサンダカン、交趾、アユタヤのような日本人町は出来なかったが、中国人は居住した。そうした中国人の職工により焼き物技術が伝えられ、この町には先刻見て来た黒塗りの壺、Vigan Potteryが焼かれるようになった。同時に沖縄パナリ焼に似た赤土の素焼きなども作られ、多くが日本に輸出されたと言われる。その後、スペイン人が進出してきて、この町の名前をViganとした。

以上は三代将軍、家光が鎖国令を出し、日本人の海外渡航を禁じた時までの状況で、その後ほぼ250年以上の長い間、日本人とこの町は没交渉の状態だった。再び脚光を浴びたのは、戦後の事であり、それは先にも触れたように太平洋戦争勃発時、この国から米軍を追い払った日本軍は各地に軍政を敷き、この町には約200名の守備隊を率い、高橋大尉がやってきた。その後、日本軍の敗戦が濃厚になった時、その高橋大尉が司令部の命令に抗して、この町を破壊せずに退却し、結果、この町の市民と建造物が全くの無傷で残された、という美談で、戦後明らかになったものである。それは山下軍団がマニラ撤退に際し、米軍との市街戦で多くのマニラ市民を戦禍に巻き込んだ最悪の状況と比べ、実に勇敢な行為で、数年前にはこの美談を基にし、フィリピンで映画も制作された。その高橋大尉役には高島宏行が主役を務めたとも聞いている。

「美顔」というこの町の日本名は、上記の経緯より、1942年から45年の約3年間、この町を統治した高橋守備隊により名付けられたものではないかと思う。「美しい顔の町」。実に優美な名前で、大尉が駐在した間、地元フィリピン女性を妻に娶った、美貌のフィリピ―ナが想像されるものである。

はしなくもルソン壺の焼き物市場で、Vigan Potteryの数々の壺を眺め、そこからパナリ焼を連想し、更には利休、助左衛門と広がった想像の輪は、太平洋戦争時の高橋大尉にまで及び、再び現実に戻ると、そこは既に旧市街の中央広場に出る手前であり、左手にクリーム色をした大きな建物が見える。UNPだ。University of Northern Philippinesのキャンパスだ。フィリピンを代表する有数な大学の一つ。折から多くの学生が集って来ている。何があるだろう、と近づいて見ると、就職説明会だった。フィリピン人は怠け者が多く、仕事をしたがらない、という定説が日本人の中にあるが、今ここに集って来ているフィリピン若者の真剣な眼差しを見ていると、それは日本人の偏見に過ぎなかったことが良く分かる。そこにはフィリピンの将来を担う、次世代の若い情熱が凝縮されているのが見て取れた。




ブルゴスを記念するゲートだ。
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ああ、立派な建物だ。・・UNP,University of Northern Philippines。大学校舎か・・。
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学生が大勢集まっていると思ったら、今日は就職説明会が行われている。
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ああ、南国風の感じの良いキャンパスだ。
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いるいる、大勢の学生が皆就職先を真剣にチェックしている。
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彼等の真剣な眼差しを見ていると、この国の将来に希望が持てて来た。
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