ちゃおチャオブログ

日々の連続

台湾・高雄の4日間(21)台南市「安平古堡」を歩く。

ここは安平堡塁。行こうと思っていた赤嵌楼とは違う場所のようだ。
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赤レンガ乃至赤砂岩を主体とした城塞で、日本式のお城とは随分と違っている。
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ああ、この像、鄭成功じゃないのか??
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ああ、矢張り鄭成功だ。台湾の英雄。オランダをこの島から追い払った、最初の中国人支配者だ。
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西洋的な堡塁だが、ここは最初にオランダ軍が建設したものだ。
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鄭成功の古城「赤嵌樓」に行くつもりで乗ったバスは、市内をぐるぐるかなり走り、街の郊外まで来て運転手から「ここだ」と言われて下ろされた場所は、以前来たことのある「赤嵌楼」とは大分雰囲気が違っている。海岸に近い埋め立て地を開発した新市街地にあり、その限りでは周辺の状況が大きく変わったのか、とも思ったが、肝心の古城が以前来た時よりも数倍も大きくなっている。中国人(台湾人)のことだから、古城自体も一緒に大々的に再築されたのか、とも思ったが、それにしても使用されている赤レンガ、赤石などは、時代を経た古めかしい感じだ。いずれにしてもここまで来た以上は、中を見るしかない。

同行の稲さんとはここで分かれ、一人で古塁に向かう。正面の入り口に回り、中に入ると、これは大きさから言っても城塁だ。城壁の色は異なるが、形、イメージ的には函館五稜郭に似ている。日本のお城とは違って、西洋的な城塁だ。中に入って分かったが、この城塁は、当時のオランダ軍、東インド会社が造ったものだった。成程、それでこんな堡塁のような形をしていたのか・・。

江戸時代の初め頃、台湾はまだどこの国にも所属していない、未文明な土地だった。住んでいたのは高砂族等の部族単位で、国を形成するには至っていなかった。そこへオランダが入り込んで、この地、台南に堡塁を作り、支配権を確立した。その後、日本生まれの鄭成功が大陸からこの島へやってきて、オランダ人を追い払い、彼がこの島を支配した。形の上では明の遺臣。新たに勃興した清に追われた明の遺臣が鄭成功を中心にこの島に逃げて来て、新たな支配権を確立したのだった。それは現在の中華民国が、共産中国により大陸を追われ、この島に逃げて来た400年後の現在にそっくりな状況だった。違うとすれば、現在の中華民国は既に60年以上の命脈を保っているが、鄭政権は僅か20年そこそこで清に駆逐されたことである。それ以来台湾は正式に中国の領土となったものである。

堡塁の一番高い場所でも海抜は30mもないが、その横に高さ5m程の展望台があり、そこに登り四周を眺める。前が海。今は埋め立てが進んで、東シナ海は遥か先にしか見えない。三方は台南の市街地で、駅方向には高層ビルも見えている。茫洋たる街並みだ。16世紀後半、この島を最初に発見したポルトガル人は、島全体を覆う美しい緑に感動し、「Formosa」、「麗しの島」と名付けたが、今この展望台から眺める四周からはそうした緑の美しさは全く想像できない。この400年の間、島は至る所人に依り開発されてきたのだ。



ここにも又鳳凰木が綺麗に咲いている。・・この花か・・、南洋桜と言われていたのは・・。
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展望搭の上に登り堡塁の周囲を眺める。
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台南中心部、駅の周辺には高層ビルが立ち並んでいる。
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遠方に東シナ海が見える。以前は、この直ぐ近くまで海が繋がっていた筈だが・・。
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麗しの島「フォーモサ」。今、森は切り払われ、一面に市街地が広がっている。
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