ちゃおチャオブログ

日々の連続

湯河原の1日(11)重光葵邸。

奥湯河原バス折り返し点の前には藤木川上流の渓流が流れている。重光邸はこの上流になる。
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バス折返し点から少し上った先に重光葵邸があった。
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今は無住で、記念館になっているが、開館日は金土日の3日間だけ。今日は月曜で残念ながら中には入れない。
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外から中の様子をうかがだけだ。
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小中学校で戦中戦後史を殆ど学ばない若い世代の人たちにとって、重光葵と聞いて、どれだけの人が彼の風貌、不自由な肢体を思い浮かべることができるだろうか。そもそもこの名前「重光葵」すら満足に読める人が何人いるだろうか・・。。「明治は遠くなりにけり」は戦前の俳人中村草田男の名句で、又「もはや戦後ではない」は池田勇人元総理の名言であったが、平成の世も20数年経た今、終戦直後のどさくさの時代を回顧する人も数少ない。

重光葵氏は戦前戦中戦後を代表する名外交官で、昭和20年(1945年)9月、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ艦上で、不自由な右足を引きづって日本帝国降伏の書面に日本国を代表して調印した日本を代表する外交官だった。網目模様のタラップを米兵によって艦上に引き上げれた丸メガネの彼の映像は今でも目に浮かぶ。この時をもって日本は連合軍に全面降伏し、戦後の平和日本のスタートとなった記念すべき日なのだ。だが、多くの日本人にはその重要性や意義も忘れ去られ、彼の名前すら満足に読めない日本人が大半を占める時代になってきた。彼の名前は「しげみつまもる」である。

不動滝から歩いて来て、目前に「青巒荘」が見えるが、夕方の宴会にはまだ大分時間もある。重光さんの別邸が確かこの奥湯河原にあり、戦後の何年か、冬の寒い日心臓病で急逝した。突然の死で、腹上死との噂も絶えなかったが、没年は古希を迎える1年前だった。自分とほぼ同い歳である。バスの奥湯河原終点の折り返し点から少し上った所にその邸宅があった。閑静な別荘地帯にあり、1000坪は超えるであろう大きな屋敷は背の高い樹木に覆われている。が、中には入ることができない。今ここは無住無人で「重光葵記念館」として公に公開されているが、開館日は金土日の3日間に限られていて、今日の月曜、竹矢来の塀の外から建物の一部を眺めることしかできなかった。折からの道路工事の重機の騒音が忌々しく鳴り響いていた。

まだ少し時間もあり、集落の山に近い部分を道路に沿って駆け上がる。数10戸の住宅が1本の道路の両側に並び、300mほどでその道は終わり、後は山に向かう杣道に変わっていく。見上げる山は奥多摩、奥高尾、裏相模と変わらない。この山あいに住む人々の生活も多摩の人々とそれ程違いはないのだろう。重光さんも激動の時代を生き抜き、最晩年の余生はこの静かで争いのない実に落ち着いた場所で過ごしていたのだ。



右側奥が邸宅。高い樹木に覆われている。
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この付近は静かな別荘や個人宅になっている。
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山が近い。集落のたたづまいは、奥多摩、奥武蔵にも似ている。
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あの山が城山かも知れない。重光さんも最後の余生を静かで落ち着いた村落で過ごしたのだ・・
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