ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(13)屋敷町の奥の西郷墓所へ。

中央公園、西郷像の前には、幾つかの歴史建造物が建っていた。
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これは博物館。戦災には遭わなかったか・・
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県文化センター。
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City Busは途中西郷洞窟の前を通過する。
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住宅街で降り、西郷墓所、神社を探す。
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住宅地を抜けて高台に向かう。
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西郷像の建つ中央公園周辺には幾つもの歴史的建造物が建っている。鹿児島も空襲に遭った筈だからこれ等の建物は戦後建てられたのか。飛び乗ったバスはもう一度城山駐車場に向かうが、その途中西郷洞窟の前を通過する。何人か下車し、又何人か乗る人もいた。西郷最後の場所をこの目で見ておきたい、という観光客も多いのだ。バスは旧城址から東外れに当たる武家屋敷地区に入り、自分もそこで下車する。篤姫の生家、今和泉家もこの辺りのどこかにある筈だが、幾つかのそれらしき豪壮な邸宅を見るが具体的にどこがその邸宅かは分からなかった。いずれにしても島津本家の外戚の一つ、領主でもあって、それなりの立派な邸宅だったろう。

その屋敷町を登った先の丘の上に西郷神社がある。西郷神社もそうだが、そこには西南戦争で亡くなった西郷軍の将兵2000数名の墓石が一堂に奉じられていて、壮観だ。坂を上って行くと前方に鳥居が見てきて、この丘の上に墓地があり、且つ、神社があることを示している。しかしここまでやって来る観光客はごく稀で、殆ど行きかう人もいない。鳥居をくぐると、先ず最初に目に着くのは、正面のひときわ大きな墓石で、そこには「西郷隆盛の墓」と刻されている。後は何も書いてない。戦乱前は陸軍大将であったが、新政府に歯向かい剥奪され、遂には敗れて頓死。爵位も何もなく、南洲翁という雅号もなく、一人の人間として葬られている。人として生き、人として死ぬ、それが彼の本望だったのかも知れない。

どこかで見たような墓石だ、と思って眺めていたら、それは三鷹禅林寺にある森鴎外の墓石と形も大きさも質感もそっくりだった。森鴎外も陸軍中将で没したが、墓石には単に石見人、森林太郎との本名が刻されているのみだ。墓石は当然ながら西郷の方が先に建立されていたのだから、鴎外は西郷の無冠の墓碑を知って、同様にしたのか・・。鴎外に生前何等かの心の負い目でもあったのか・・。あったとすれば日露戦争時の疫学対応位だと思うのだが・・。いずれにしても鴎外と西郷の形も大きさもそっくりの偶然にはたと気が付いた。

鹿児島県人の敬愛止まぬおいどん西郷。反乱軍となっても県民の情は篤く、遺族関係者が力を合わせ、見晴らしの良い丘の上にこれだけの規模の墓地を作った。大将も隊長も兵卒も皆一緒になって眠っている。線香の香りは漂ってはいないが、献花はどれも新しい。敬愛者や遺族が日々やってきては捧げているのだろう。どっしりとした重量感のある墓石。誰がやってきてもここからは動かんぞ、と無言の主張をしているようだ。暫く墓石、墓域を眺めていると、若いグループの何人かがやってきた。それを汐に西郷神社へお参りに行くことにした。



丘の上に鳥居が見える。ああ、ここが西郷神社だ。
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石段を上ると、12月なのにまだ銀杏がまだ黄葉していた。
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石段を登った正面は墓地で、そ真正面に西郷の墓石が建っていた。
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いやー、どっしりした重量感のある墓石だ。無冠の西郷隆盛
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左右を桐野、篠原等の隊長が取り囲んでいる。
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広大な墓地には、西郷に従って散って行った将兵が一堂に供養されている。
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国を思い、家族を思い散って行った2000数百名の西郷軍士。
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