ちゃおチャオブログ

日々の連続

紀の国訪問記(79)闘鶏神社の参拝を終えて、ホテルに戻る。

闘鶏神社を帰りしなにもう一度振り返ると、高校生の一団が集団参拝にやってきていた。

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わざわざ戻って弁慶湯を聞くことも無いので、そのままホテルに戻ることにした。

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ちょっと目を離して、もう一度振り返ると、先の高校性の姿はもう消えていた。

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ここが闘鶏神社表参道の鳥居だ。

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朝の時間、他の参詣者の姿も見えず、境内の案内図も定かでなく、弁慶産湯釜の場所を聞くことも出来ず、神社を後にする。帰る間際にどこからか高校生のグループがやってきて、さっと来て、さっと参拝を済ませ、又どこかへ出て行ってしまった。来た時は西の鳥居から入って来たが、出て行く時は正面の大鳥居からだ。正面の参道には大きな鳥居が、200m程の間隔で2本立っている。田辺は港町で、漁業も盛んで、氏子の財力もあるのだろう。

 

鳥居を出た所が駅前から延びる商店街の通りになり、その商店街を左に曲がって、駅とは反対方向に進むと田辺港に出ると思われるが、今はそれ程ゆっくりしている時間は無く、今日は港を見るのは諦めて、真っすぐ駅に向かってホテルに戻ることにした。二の鳥居の辺りは既に商店街に接しているが、そこには大きな石碑のモニュメントがあり、世界遺産に登録されたことが余程か誇らしいのか、「紀州山地の霊場と参詣道ー熊野参詣道(大辺路)」と黒々と刻まれていた。

 

この辺りは歴史的保存地区になっているのか、庚申塚とか、古びた御堂が幾つか建っていて、江戸時代から続く参詣客に親しまれて来たに違いない。熊野古道大辺路にしても中辺路にしても、大変な山坂を越えて行かねばならず、皆がみんな行けるとは限らない。そこで多くの人々はこの闘鶏神社、田辺宮にお参りし、ここから熊野三山を遥拝していたとのことである。それにしても当時の交通不便な時代、京大阪からここまでやって来るのも並大抵なことではなかっただろう。この表参道、二の鳥居の前の建つ大辺路の石碑は、当時の人々の労苦を思い起こすよすがとなった。

 

200m程先にも二の鳥居が建っている。

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その鳥居の横に世界遺産を記念する大きな石碑が立っていた。

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この辺り歴史的地区なのか、江戸時代から続くような古い建物が目立つ。

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昔のお遍路さんは、こうした御堂で休み、大辺路を上っていたのだろうか・・。

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