鹿屋資料館2階には操縦シュミレーションなどもできる。
操縦室にも座ることができる。
海自救難ヘリか・・
館の外にも大型ヘリが展示してあった。
航空オタクが見たら、飽きないだろう・・。
今日は忙しい1日だ。朝一番でホテルを出て、フェリーで鹿児島湾を横断し、垂水から一路佐多岬までの150キロを駆け抜け、再び半島を北上し、その根元近くにある鹿屋基地に立ち寄り、今日の最終目的地は県の最北、宮崎県堺にある霧島神宮まで回る予定でいる。鹿屋では本来もっとゆっくりと見学したかったのだが、先のことを考えると、余りゆっくりもしていられない。これから更に100キロ以上を走らなければならないのだ。
2階の展示場にはゼロ戦が中央に堂々と置かれていて、その周りにはヘリコプターとか、コンピューターシュミレーションの設備などの展示もあったが、先を急ぐので、そうした機器類に触れることもなく、そのまま通り過ぎ、再び1階の特攻隊員遺品室等を回ったが、その一つ一つの手紙類を読む時間もなかった。昔、学生の頃毎日新聞社から出版された戦没学生の手記を読み、当時の、自分と同世代の青年がどれ程国を思い、家族を思い、今置かれた境遇に悩み、過酷な人生と真剣に向かい合っていたその時の状況、精神を想像すると涙を禁じ得ない思いがあった。今、ここに展示されている両親、家族あての手紙、遺書などを目にすると、中を読まなくてもその時の情景が自然と思い出された。
自分を含め今の現代人、青年は当時の人々、兵士や戦没学生と比べたら、随分甘い、楽な生活をしていると改めて思い起されるのだが、そうした重く沈んだ心になって記念館を出ると、南国の外の陽光は暖かく、明るかった。入館する前には気が付かなかったが、館の横手には更に新たな航空機が屋外展示されていて、それ等は海難救助ヘリのようだが、南海の荒海で遭難する漁船員等の救助で、時々ニュースになったりするものだった。
最前線新鋭機のジェット戦闘機と比べるとこれ等のヘリ救助機はやや迫力に欠け、強く興味を引き付けるものではなく、ほんの一瞥、写真だけとって、鹿屋を出て国道を北に向かう。道路標識を見ると右手、太平洋岸に向かうと、ペンシルロケットで有名な内之浦とか、いやいやバカにするものではない、JAXA、宇宙開発事業団のロケット打ち上げ基地が今の種子島に移る以前には、宇宙ロケットはすべてこの内之浦から打ち上げられていたのだが、今はマイナーの小サイズロケット打ち上げ基地に格下げされている。
この内之浦の直ぐ北側には志布志湾があり、ここは又鹿児島湾内にある喜入よりは更に大きな石油備蓄基地で、今は何日分かは正確には知らないが、国の施策として、日本で毎日使用する石油の90日分を備蓄している。もしも時間があれば寄り道してこの内之浦~志布志湾の日南海岸を回るきおとも考えたが、如何せん時間がない。今回はオミットして先に進む。
2階の展示場にはゼロ戦が中央に堂々と置かれていて、その周りにはヘリコプターとか、コンピューターシュミレーションの設備などの展示もあったが、先を急ぐので、そうした機器類に触れることもなく、そのまま通り過ぎ、再び1階の特攻隊員遺品室等を回ったが、その一つ一つの手紙類を読む時間もなかった。昔、学生の頃毎日新聞社から出版された戦没学生の手記を読み、当時の、自分と同世代の青年がどれ程国を思い、家族を思い、今置かれた境遇に悩み、過酷な人生と真剣に向かい合っていたその時の状況、精神を想像すると涙を禁じ得ない思いがあった。今、ここに展示されている両親、家族あての手紙、遺書などを目にすると、中を読まなくてもその時の情景が自然と思い出された。
自分を含め今の現代人、青年は当時の人々、兵士や戦没学生と比べたら、随分甘い、楽な生活をしていると改めて思い起されるのだが、そうした重く沈んだ心になって記念館を出ると、南国の外の陽光は暖かく、明るかった。入館する前には気が付かなかったが、館の横手には更に新たな航空機が屋外展示されていて、それ等は海難救助ヘリのようだが、南海の荒海で遭難する漁船員等の救助で、時々ニュースになったりするものだった。
最前線新鋭機のジェット戦闘機と比べるとこれ等のヘリ救助機はやや迫力に欠け、強く興味を引き付けるものではなく、ほんの一瞥、写真だけとって、鹿屋を出て国道を北に向かう。道路標識を見ると右手、太平洋岸に向かうと、ペンシルロケットで有名な内之浦とか、いやいやバカにするものではない、JAXA、宇宙開発事業団のロケット打ち上げ基地が今の種子島に移る以前には、宇宙ロケットはすべてこの内之浦から打ち上げられていたのだが、今はマイナーの小サイズロケット打ち上げ基地に格下げされている。
この内之浦の直ぐ北側には志布志湾があり、ここは又鹿児島湾内にある喜入よりは更に大きな石油備蓄基地で、今は何日分かは正確には知らないが、国の施策として、日本で毎日使用する石油の90日分を備蓄している。もしも時間があれば寄り道してこの内之浦~志布志湾の日南海岸を回るきおとも考えたが、如何せん時間がない。今回はオミットして先に進む。
国道は大隅半島根元部分の長閑な田園、森林地帯を都城に向かって進むが、都城には知人の今村さんが住んでいて、たまたま名前はこの前辞職した佐賀出身の今村大臣と同姓だが、彼と違って薩摩藩士の血を引く名家で、以前高千穂峰に登った時に一泊お世話になったが、今回は事前に知らせてなかった。それにもう10年も会っていない。今村さんに電話する誘惑にも駆られたが、もう既に時間も遅く、曾於(そお)という変わった名前の山間部で、右手都城、左手霧島、との分岐点で左を選び、霧島へ急いだ。霧島に着いた時は殆ど夕方近く、参道前の路上駐車の車も1-2台、数える程だった。