ちゃおチャオブログ

日々の連続

日の出・御岳縦走15キロ(2)日の出山頂902m。

金毘羅神社の前から眼下の日向和田里山を眺める。そうだ、ここは奥多摩象頭山に違いない。
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神社から30-40分、重爆撃機「飛龍」墜落地の説明版が出ていた。
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日の出の手前でお昼にし、1時20分、漸く日の出山頂に到着した。
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連休の中日、山頂はかなり賑わっていた。
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日の出山頂、902m。高尾山よりも300mも高い!
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ここは秩父多摩甲斐国立公園になっている。
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山頂には高校生か大学生のグループがいて、賑やかだ。
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登山口から登り始めて約50分、何でこんな高い山中に神社があるのだろうかと不思議に思うが、考えてみれば、本家の讃岐の金毘羅神社も長い石段を登った高い場所にある。そこは象頭山という、象の頭のような尖った出っ張りの先にあり、そこからの讃岐平野、瀬戸内海の眺めは抜群だったが、今いるこの日向和田金毘羅神社も同じような地形で、眼下に広々とした日向和田の田園が広がっている。違うのは海の代わりに蛇行する多摩川で、昔の人は同じようなイメージで、この山中にこうした神社を作ったに違いない。

この神社の謂れは詳しくは知らないが、江戸時代に入って、人々の所得も上がり、大山詣でとか伊勢参り、もっと遠くの金毘羅参りなどもブームになったようだ。相模の大山なら簡単に行けたが、お伊勢となると中々大変、一生に一度位なものだったろう。その更に先の金毘羅さんとなると、ほんの一部の金持ちの道楽だったに違いない。そうした道楽者が伊勢や金毘羅へ行き、有名寺社を勧請して、地元の守り神、山神になったのが、今に引き継がれているのだが、戦前のこの辺りは炭焼きとかお蚕で、かなり裕福だったようだ。江戸時代と比べ交通の便も良くなり、先達に連れられ、盛んに本社参りをしていたに違いない。

崖上の神社の角から眼下に広がる豊かな奥多摩の山村を眺め、最初の目的、日の出に向かう。途中二俣尾から登って来る山道と合流し、漸くこの辺りから他の登山者にも出会うようになった。
「アベックに 前後を守られ 山登り 賑やかなりし 吾も元気に」

過去何回かこのコースを登ったり、下山したりもしたが、今まで全く気が付かなかったが、今日は歩行がゆっくりなのか、山道の横の珍しい看板に気が付く。それは終戦直前にこの山中で発生した重爆撃機「飛龍」墜落地の案内板で、それは昭和20年8月11日、浜松から熊谷に向かって飛行している途中、墜落し、春日大尉他12名が即死した、との説明だったが、先ず驚いたのは、敗戦直前でもまだこのような重爆撃機が日本に残っていた、と言うことと、後4日で終戦。この飛行がこの日でなければ、あたら12名の命も失われなかったのに・・、という思いだった。大尉と言ったらもう30歳過ぎで、家庭もあり子供もいたかも知れない。運命は無残だ。

お昼を日の出山頂で、と頑張って登ってきたが、思い通りには足は運ばない。12時を過ぎ、12時半になってもまだ山頂は先だ。頑張れば後30分位で到着できるかも知れないが、山頂の少し手前でお昼にする。ベンチがあって人気のない場所だから、ゆっくりお昼も食べられた。10分ほどで簡単にお昼を済ませ、1時半に漸く日の出山頂、902mに到着した。

山頂には高校生か大学生らしい若い人がたくさんいて、休んでいる。若い人が山を好み、山に登るのは健全だ。日本の未来は若者に託される。若いグループがこの山のすぐ下にあるつるつる温泉に下って行くと、山頂も急に静かになった。前方に御岳が見える。その後ろの奥の院、男具那も見える。この先、どうするか。鳩ノ巣へ抜けるか、御岳参道を下るか・・、兎も角御岳まで行って考えることにしよう。



若い人は元気で良い。日本の将来だ。
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ああ、山好きの皇太子殿下もこの山に登っているのだ。
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この頂のすぐ下がつるつる温泉。御岳までは2.5キロほどだ。
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前方に御岳が見える。殆ど平坦だから、きつくはないだろう。
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御岳神社奥の院、男具那も見える。
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男具那、流石に男の異名、尖っている。
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山頂で10分ほど休み、次に御岳に向かう。
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