ちゃおチャオブログ

日々の連続

能登の春(20)天領黒島へ。

天領黒島にやってきた。
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これが黒島の名前の謂れなのだろうか・・。
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広い渚で湊にはなつていないが・・。
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国道の一段高い場所に集落がある。江戸時代の賑わいは既に失われているが・・
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能登の春」は前回5月の初旬持寺祖院で終わっているが、翌週から四国巡礼に出かけ、帰ってからはその巡礼記に取り掛かり、ほぼ1か月近く休止状態であったが、四国巡礼記の方も、今日徳島の1日目が漸く終了し、ここで四国巡礼を一旦保留にして、先ずは先に「能登の春」を終わらせるべく、今日から又再開することにした。能登半島を旅行したのは4月の始めであり、その時は丁度桜も満開であったが、今はもう6月になっていて、時間的なタイミングも失した面もあるが、まあ、2か月前のことを思い出しつつ、綴っていこう。

能登門前町にある總持寺祖院の次に向かったのは近くにある天領黒島である。全国に天領が何か所あるか知らないが、徳川将軍家300万石の広さから言ったら、全国に点在していることは間違いない。数年前に世界遺産に登録された岩見銀山とか佐渡の金鉱、或いは飛騨とか日田の林業などが有名だが、海運に関係する湊なども天領に組み入れられていたのだ。元々この能登半島自体、戦国大名の領有が明確でなく、それ以前の荘園制度からしたら猶更不分明だ。だから半島全体に幕府領も多く、加賀前田藩が代行差配していたようである。ただこれから向かう黒島は明確な天領で、幕府直轄地だ。ただ飛騨や韮山代官所佐渡奉行所のような幕府の出先機関があったとは聞いていない。

總持寺祖院から黒島までは車で10分程度だ。距離にして5-6キロか。先刻祖院で見てきた山門近くの経堂は大坂の商人衆の寄進によって建立されたものだが、その資材は大坂から船で運ばれ、黒島に荷揚げされて、そこから陸路この素因まで搬送されたとのことである。江戸時代、黒島は北前船の重要な寄港地であり、湊も栄えたとのことである。行ってみると、今は既に当時の賑わいは消え失せていて、路上を歩く人影も見えないが、海岸の浪打から一段上がった高台には黒塗り、黒塀の重厚な建物が軒を連ねていて、当時の殷賑さを想像させるものがあった。

国道を少し上がった所に当時の廻船問屋、角海家という黒塗りの大きな建物があって、外部公開されているが、元々の建物は数年前の能登地震で倒壊し、その後、再建されたとのことである。当方、廻船問屋を見る興味もないし、時間も既にお昼を過ぎている。ここへ来る途中にドライブインがあったので、建物等は外観だけを眺め、そのドライブインに急ぐことにした。今日の午後半日で、半島のどこまで行けるかが問題だ。
建物等には確かに昔の面影を残してはいるが・・。この赤い車が自分が乗ってきたレンタカーだ。
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ああ、ここが当時のメインの目抜き通りだったのだ。
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確かに黒塗りの建物は今でも多い、
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ああ、この上が地震後再築された廻船問屋、角海家か・・。時間がないので、パスして次に向かおう。
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