ちゃおチャオブログ

日々の連続

能登の春(26)道の駅「塩田村」を見て、半島最北端へ。

ああ、ここから先暫くは塩街道だ。
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道の駅、塩田村に立ち寄る。
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海水を煮沸する大きな塩釜だ。
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この辺には揚げ浜式の塩田が数多くある。
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揚げ浜式塩田とはどんなものかは実際は知らないが、その言葉から察するに、海水を浜に汲み上げ、天日で干して塩を採る方法と思われる。垂水の滝の先のトンネルを通り過ぎた辺りから道路の海寄りに平らな平面が表れてきて、多分そこに海水を流し込むのだろう。自分はまだ見た事はないが、四国の坂出とか明石辺りで昔から行われていた方法で、云わば塩の田んぼだ。坂出などはその少し先の海が伯方の塩で有名な塩飽諸島で、元々この辺の海水は塩分が濃いのだろう。

ここ道の駅、塩田村も目の前が荒磯で、尖った岩に砕ける波はいかにも濃い塩分を含んでいそうだ。昔はこうした荒磯に打ち上げられた海藻を集め、更にそれを火にあぶって塩を凝縮していたようで、万葉集にも藻塩焼きなどの言葉も出てくる。万葉の歌人大友家持は若き頃越中守に任じられ、富山の高岡に赴任していたが、その管轄区域にはこの能登半島も入っていて、1-2回は視察に来たようだ。家持が視察に来た当時、浜での塩焼の煙も見たであろうし、焼き塩から焼き餅、又その後の塩辛さを思ったかも知れない。5月から世も令和になる。万葉集から採用された元号と言う。日本人ももうちょっと深く万葉集に親しむ必要があるかも知れない。

自分の実家は伊豆にあり、そこでも駿河湾の海水を汲み上げて塩を作っているが、戸田塩という名前で各地の道の駅とか沼津の御用邸でも売られている。今は亡き姉がその製塩をしていたが、タイや台湾、沖縄の塩などを土産で買ってきたこともあった。そんなことを思い出しながら館内に入る。駐車場には車が1台も止まっていなかったが、かなり広くて、塩の博物館のような館内は珠洲市の職員と思われる女性が数人暇そうにしていた。どこでもそんな感じだ。輪島の輪島塗会館では、自分が入った途端、館内にいた女性従業員5-6人の目が一斉に当方に注がれたが、流石にこの塩の駅ではそんな不躾な態度はなかった。

輪島塗会館ではとても高うて手も出せなかったが、ここの道の駅では手ごろな値段で、特産の塩やにがり、昆布や海産物等をお土産に買う。少しは喜ばれただろう。パートタイマーらしきお嬢さん達に見送られ、塩の駅を出て、次に目指すのは半島の最北端、緑剛崎灯台だ。行き交う車も無く、天気も良いし、快適なドライブだ。たまに行き交う車もあるが、それは限外やワナンバーではなく、皆地元の能登ナンバーだ。全く観光地としては成り立っていない。一体どうしたものだろう・・。時々集落が現れるが、人工過疎なのか、外に出ている人影も見えない。無声映画の中を走っているようだ。

道路際に時々小さな小屋が見える。気になって車を降りてみて見ると、それはバス停だった。今は陽気がよいが真冬になったら、雪も激しく降るのだろう。防雪、防風雨の為のバス停だった。こんな過疎の部落で、バスを利用する人がいるのかいないのか知らないが、通学用にも利用されているんどあろう。時刻表を見ると1日数本、数える程しかない。それも本当にローカルで、珠洲市とか輪島への直行バスはなかった。過疎の村で生活するのも自分には想像もできない程に大変なのだろう・・。



瀬戸内の塩飽と同じように、この辺りの海水も塩分濃度が濃そうだ。
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ああ、この辺り、防風林ならぬ竹矢来で海風を防いでいる。
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前方にバス停留所がある。この辺りの停留所は防雪、防風雨の為に小屋づくりになっている。
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日に何本しか通わないバス。しかも輪島や珠洲への直行バスはない。
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