ちゃおチャオブログ

日々の連続

四国霊場・高知篇(9)津照寺境内から室戸の海を眺め、下山する。

津照寺本堂の境内からは眼下の室戸、岬等が間近に見える。
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今の室津港は護岸工事などされて近代的になっているが、基本的には1200年前の光景とそれ程変わらないだろう。
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数キロ先の室戸岬も良く見えた。
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1200年前、空海が見たであろう同じ風景を眺め、境内を後にする。
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猫の額、と言ったら失礼に当たるかも知れないが、本当に狭い津照寺本堂の境内の端から眼下の海と街並みが見えてくる。この寺は今から1200年程前、この場所に建てられたのだから、今自分が眺めている風景は空海がこの場所に立って見ていた光景と左程は変わらないだろう。変わったのは室戸の街並みが1200年前より広がり、人口も増え、近代的な港の装いになった事くらいだろう。ここから眺める岬の海岸線、曲線、最御崎寺のある辺りの山の膨らみ等々の自然の風景は全く変わらないに違いない。

室戸の町の室津港。最近は余りTVニュースには出てこないが、台風が四国を直撃し、室戸岬又は足摺岬に上陸しそうな時には、台風避難港として、この港や土佐清水港が映し出されるが、この港は既に1200年以上も前から港として整備されていた。当時の町の規模は今同様にそれ程大きなものではなかっただろうが、この小さな町に3ケ所もの八十八ケ寺霊場があるというのは、それだけの財力もあったのだろう。それはこの港が貢献していたことには疑いはない。

歩き遍路は基本的に第一番霊山寺から第八十八番大窪寺まで、順番に歩いて回って満願達成するものだが、そうしたお遍路さんでない旅人は舟運を利用したのだろう。唐から帰った空海が後年この寺や周辺の最御崎寺、先刻の金剛頂寺へ行ったのも、この港を起点にしていた。瀬戸内の舟運は昔から活発なものであったが、瀬戸内を離れた外洋でも沿岸舟運はかなり発達していたものと思われる。であるからこそ、先刻の神峰寺の前身、神峰神社が朝鮮出兵に際し、神功皇后が戦勝祈願に天照大神を祀った背景も理解できるし、義経がぐるっと紀伊水道を渡って小松島に上陸し、背後から屋島の平家を急襲した戦略も理解できるものである。空海の凡そ100年後、紀貫之が5年間の土佐国司の役目を終え、京に戻る際、海が荒れて、この室津に10日間足止めされたことが土佐日記に記載されているが、そうした海上交通を何よりも物語っていた。

高台にある本堂境内からひとわたり眼下の室戸の海、岬、太平洋を眺め、1200年前の空海の時代に思いを致し、下山する。再び竜宮城を思わせる鐘門を潜り、この竜宮門は何故か下関壇ノ浦にある赤間宮を思わせるが、仮にももうそんなことはないと思うが、20年後、再びこの寺に参詣することがあるとすれば、しっかりと記憶の底に残っているに違いない赤門を潜り、下山した。山上の境内は狭くて、大師堂を建てるスペースもない程だったが、この参道を下り切った平地に建てられていて、そこで又心経を唱和し、この寺を後にする。この寺の御本尊は楫取(かじとり)延命地蔵菩薩だ。土佐日記には室津に逗留した10日間の間に、このお寺に参詣したとの記述はないが、港から直ぐ目と鼻の先にあるお寺、一度ならずこの石段を上り下りしたであろう。



再び竜宮城を思わせるような鐘門を潜り、参道を下る。
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参道の石段を下った平地に大師堂はある。
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二十数年前来た時と、多分1200年前の空海の時とも変わらないであろう参道。
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寺を去るに当たって記念の写真を1枚撮る。
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