ちゃおチャオブログ

日々の連続

愛媛(伊予一国)ドライブ巡礼(29)内子と内子座。

この通りの先に内子座がある。

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ああ、これが内子座だ!

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大正の頃建てられ、現在に残されている。

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この建物の由緒書。

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内子座の周辺には昔の路地が残っている。

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伊予の山中にある内子町。と言っても県都松山までは意外と近く、高速道では50キロ程もない。その距離は新宿から奥多摩へ行くよりも近い距離であり、この町の近さは地図を見なければ分からないことだ。ただこの町の地形は松山に出るには少し峻険な山坂を越えなければならず、その反対の大洲、宇和方面への山並みは開けていて、昔の人にとっては、こちら方面に向かった方が楽だったかも知れない。だから松山とはこんな近い距離にありながら、松山城下や近代大都市の影響を受けることは少なく、山村集落の文化、伝統が近年まで守られ続け、この町を特徴付けていた。

 

内子と聞いて、多くの日本人はその名前を聞いたことはあるだろう。四国の山中のどこにあるのかはまでは知らないとしても、そこには内子座という、田舎歌舞伎を越えたような本格演芸場があることによって、全国的な知名度になっている。自分もその一人かも知れないが、人はわざわざこの演芸場、内子座を見にこの山中の町にやってくる。一見の価値はあるのだ。そう、内子は内子座で持っていると言っても良い。

 

日本の各地、山村漁村で田舎歌舞伎が盛んになったのは、いつの頃からか。江戸時代、文化文政の頃辺りから地域経済にも余裕が出てきて、農閑期、休漁期には余暇を楽しむ村祭りなども広く行われるようになってきた。平和の祭典だ。そうした中、更に経済的に余裕のある村落では人々の寄進によって神社の境内などに芝居小屋等が造られ、芸人などを招き、余暇を楽しんだ。自分の生まれた伊豆の海辺の岬の先端に古い神社があり、江戸時代、その境内に本格的な演芸場が造られ、そこには回り舞台も作られていた。今でいう立体駐車場のターンテーブルのようなもので、それは舞台の下で人力によって回転させるものであったが、演じている役者がそのままの姿勢で、ぐるっと回転していく様は、子供の目には新鮮だった。

 

ここ内子の内子座はそれ等よりももっと新しく、漸く大正時代になって町民の寄進によって本格的な歌舞伎仕様の演舞場が造られたのだ。人口過疎の田舎で、よくぞこれ程見事な劇場が造られたのか、感に堪えないが、それは、昨日道灌さんがこのブログにコメントしたように、この町ではハゼの木から作られる蝋燭の生産が盛んで、一時は全国出荷の3割も占めたこともあったとの事、町は潤っていたのだろう。今は東京築地の歌舞伎座も建て替えられて後ろが高層ビルになっているが、3代前の初期の歌舞伎座、或いは京都南座を彷彿させるような構造で、地方の人々がこれ程の立派な演劇場を作ったちとは! 

 

山間の地方にこれだけの建物、日本中に知れ渡り、人目を惹いたのは間違いない。ただこの演劇場も不景気で客が集まらず、一時は閉館の憂き目に遭い、その後、誰か興行主が映画館にもしたようだが、映画の斜陽化でそれもダメになり、暫く休館していて、遂には取り壊しの計画も持ち上がったが、再び町の人の篤志により保存が決まり、現在に残されたとのことである。コロナ禍なのか、いつものことなのか、劇場の中には入れず、入り口に掲げられた長い解説文を読んで、慰めるしかなかった。地方の文化遺産、国も県も率先して救済保護に当たるべきなのだが・・。

 

映画やドラマ、あちこちの観光案内に載っている内子座

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内子座、裏出口。

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内子座の直ぐ横には民家の畑の菜園があった。

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中央通りに続く古い町並み。

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いつの時代から続いている旧家だろう・・。

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