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日々の連続

四国霊場最後の巡礼(19)第七十三番我拝師山 求聞持院 出釈迦寺にて参拝。

出釈迦寺本堂。ご本尊は釈迦牟尼仏だ。

 

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大師堂。少年真魚は後年大師になった。

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本堂と右横に大師堂がある。

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求聞持大師の座像。由来書の最後に虚空蔵菩薩真言が記載されている。

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四国霊場第七十二番曼荼羅寺とここ七十三番出釈迦寺弘法大師と深く関わりのあるお寺だ。そもそもお寺の名前自体が垢抜けていて、並みの寺院の名前ではない。大師が唐から持ち帰った両部曼荼羅金剛界胎蔵界の2部)を先の寺に納め、それ以降曼荼羅寺と呼ばれるようになった。この寺は元々は大師の母の菩提寺であり、その母の供養のために貴重な曼荼羅を奉納したのだ。そこから僅か500m先、我拝師山により近い場所に建てられたのが出釈迦寺で、大師が幼少の頃、正にお釈迦さんと出会った場所であり、幼少の大師少年真魚の前に出現したのだ。それ故、この場所に建立された寺は「出釈迦寺」と命名された。

 

善通寺は少年真魚(まお)の出自、佐伯氏の故地であり、佐伯氏が代々領主としてこの地を治めてきた。高台にある出釈迦寺からは町中の善通寺境内は定かに特定できないが、そこは正に大師が誕生した場所である。明日一番に訪問する予定になっている。大師は並外れた日本人。本場の中国人からも五筆大師と尊称され、遂には真言宗第七祖恵果阿闍梨から印可を渡され、第八祖遍照金剛の灌頂名を得て、その印可の証、両界曼荼羅を日本に持ち帰ったのだ。本国インド、中国では真言密教は既に廃れてしまい、唯一日本に於いてのみ1200年の長きにわたり連綿と引き継がれてきている。恵果阿闍梨の慧眼もさることながら、その後を引き継いだ大師の並々ならぬ英明さがあったればこそ、日本に於いて今日の隆盛を見せているものと思う。

 

当然と言えば当然かも知れないが、この寺のご本尊はお釈迦さまだ。八十八ケ寺の中では数少ないお釈迦様。この寺を含め全部で4ケ寺しかない。本堂大師堂を参拝し、捨身が嶽遥拝所に向かう。7歳の少年真魚衆生済度の願をかけ崖下に飛び込む。やはりどこから見ても常人とは違う。その遥拝所の近くに求聞持大師の座像がある。大師が虚空蔵菩薩真言100万回を唱えている座像だ。由来書の末尾にその真言が記載されている。「のうぼうあきしゃ きゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」。以前読んだ本の中で、空海は自身の著書三教指帰室戸岬の先端の洞窟(御厨人窟)でこの真言、虚空蔵求聞持法を100万遍唱え、あらゆる記憶の能力を身に着けたと書いている。その洞窟から前の海と空を見て、宇宙は一つ、空海と自ら名乗ったとのことである。捨身が嶽に再拝し、眼下の善通寺の町を眺め、この寺を下山した。

 

納経所とその後ろの捨身が嶽。

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捨身が嶽禅定の解説文。

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夕日に浮かぶ我拝師山。

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夕暮れ時の善通寺

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