ちゃおチャオブログ

日々の連続

紀の国訪問記(13)奥の院表参道を下山する。

お盆を来週に控え、お墓掃除に来ている人の姿も見える。

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神仏習合、鳥居のある墓地もある。

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参道から枝分かれした奥の方にも立派な霊屋が見える。

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ビルマ戦線、白骨街道で斃れた将兵を弔う慰霊碑もある。

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納経所で、八十八ケ所巡礼納経帳に最後の御朱印をもらったが、窓口の初老に近いおばさん、当方最後の御朱印にご苦労さんと言った労いの気持ちもあったのか、「どちらから来られたんですか?」と聞いてくる。「東京」と答えると、自分も昔東京には住んだことがあるといって、池袋周辺の地名を言う。東京に住んだことのある人に取っては、東京からの来訪者には東京への懐かしさ、昔を思い出すよすがになるのかも知れない。自分では気が付いていないが、何か東京から持ってきた人の匂い、東京人の雰囲気、等々を無意識に感じ取るのか、或いは「東京」そのものに嘗てのあこがれを見出しているのだろうか。「今日はお泊りですか?」と聞かれたので、「今晩は宿坊」と答えると、この参道を出た直ぐの所にある「清浄心院ですか」と、聞いてくる。今晩の宿坊はどうも知名度の高そうな場所のようだ。確かに参道の入り口の直ぐ横手にあるから、利用する人も多いのだろう。

 

大任を果たした、と言ったら大袈裟な表現になるが、3年越しの霊場巡りは最後の高野山を以って完結した。納経所からの帰りは本来の参道、ここでは「表参道」と呼ばれていて、先刻歩いてきた新参道は「裏参道」と呼ばれていることが所々に立っている案内看板で知ることになったが、その古びた杉木立の参詣路を入り口に向かって戻って行く。今までこの林は高野槙かとばかり思っていたが、この並木は槙ではなく杉。和歌山県天然記念物の高野杉と案内板に出ている。随分以前に吉野最奥、西行庵まで行ったが、その周辺に自生している森林帯が、自分では杉かと思っていたが、地元の人から高野槙だと教えられ、ああ、そう言えば奥の院参道の両側に生えている並木は高野槙だったのかと、その時思ったが、それはまた又、自分自身の間違った認識のようである。自分には未だに高野槙と高野杉の違いが分からないのだが、案内板にあるように、これは杉並木なのだと、これからは間違いなく認識していこう。

 

奥の院からは約1キロの表参道。歴史に名を残す戦国武将、その後の江戸期以降の高名大名家、宗教家、文人歌人の墓標が並んでいて、その一つ一つを見て歩いていたら、とても1日あっても足りない。枝分かれした奥の墓地まで見て回ったら、とてもとても何日もかかることだろう。自分は歴史研究者でもないし、そもそもここへ来た理由は最後の御朱印をもらう事だった。有名武将のお墓がどんなものか興味はあったが、殆ど脇目をする程度で素通りして歩いて行った。

 

血しぶきの中を生き抜いた戦国武将、或いは血の海の中に落命した武将。多くの武将は生国の菩提寺の他に、この地、弘法大師の身近に葬られることを願った。生前犯した悪行、「我昔所造諸悪業」・・・「一切我今皆懺悔」。戦いは終わり、憎しみは消え、今霊は安らかにここに眠っている。首を左右に振り、所々立ち止まっては写真に収め、足の衰えた自分には小1時間程も掛かって漸く参道入り口へ戻って来た。

 

ビルマ戦線慰霊塔。皆戦争のない平和な時代が来ることを願っていた。

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福島二本松の丹羽家の墓だ。二本松城は半山城で、良い城だった。

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津山藩森家。小さな藩だが、立派な墓だ。

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(観光案内の写真借用)。織田信長墓所。案外質素だ。

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豊臣秀吉とその母大政所、妻寧々が簡素に祀られている。

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