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この参道の正面に御廟がある。右の建物は納経所だ。
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御廟橋から先は撮影禁止になるが、その手前から撮った御廟。
御廟の前の左手には天皇家の奥津城がある。
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コロナ禍とは言え真言宗総本山のメッカ、奥の院には折々全国から参詣者がやってきている。参道にちらほら見えた参詣者も、ここ奥の院までやってくると、混雑とまでは言えないが、それ相当の参詣客が参集している。自分のように一生に一度か二度の人もいれえば、祖先供養の為に毎月お参りにやって来る人もいるだろう。参詣道のあちこちにはこれからのお盆を控え、お墓掃除、苔むしり等にやってくる人々もいる。消防団員殉職碑の大きな慰霊塔では地元の消防団員か、数人がかりで大々的な墓掃除をしていた。
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御廟の手前数十mにある御廟橋から先は撮影禁止になっていて、カメラもスマホも向けられない。神聖な場所であって、観光名所ではないのだから、当然のことだ。去年回った四国霊場でも、お寺によっては神聖な場所は撮影禁止になっていて、秘仏は元より、ご本尊の仏さまも禁止している寺は多い。敬う対象であるべき御仏にカメラを向けること自体が不謹慎なのだ。
御廟橋を渡って霊域に入ると、右側にかなり広い墓苑があって、そこは天皇家の奥津城となっている。正面に十数段の石段があり、その右際には水子供養の慰霊墓石が並んでいる。その石段の正面が御廟で、ここで種々の例大祭が執り行われる。正面にはご本尊は無く、大きな空洞が開いていて、裏山の緑が目に入ってくる。この御廟の正面で礼拝し、御廟の外廊下をぐるりと時計回りに回ると廟の裏側に出て、その正面の斜面に大師廟があって、弘法大師はここにご入定し、現在も尚瞑想し続けているといわれている。ここでは侍僧が1日2回食事と衣類を供しているが、真言宗では「生身供」(しょうじんぐ)と呼んでいる。
大師廟に面して沢山の蝋燭が灯され、線香の煙も絶えないが、それは今日それだけ沢山の参詣者がここにやってきて、お参りしていった名残でもあり、尚何人かの参詣者が廟に向かって熱心に祈っている。自分も四国霊場巡りで覚えた開経偈から始まる一連の経を唱え、妻、両親、親族、知人友人縁故者の霊を弔う。御廟を一巡し、石段を下り、納経所に寄って、四国霊場納経帳の最初の頁に御朱印を頂く。一連の巡錫はこれをもって完結した。真の結願。真言宗の種字で「ゆ」、弘法大師は弥勒菩薩と同一視されていて、お釈迦様亡き後56億7000万年後にこの世に再び現れると信じられている。「ゆ」、「おんまいとれいやそわか」。心に刻みながら、杉木立の中を参道入り口に向かって、戻っていった。
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この橋から先は撮影禁止だ。正面が御廟。
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この石段の上が御廟だ。
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末杉謙信霊屋。
武田信玄、勝頼父子墓。
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