外人墓地の更に奥には南部藩士の墓地もあった。
異国の地で客死した藩士の墓。どこか淋しげだ。
直ぐ下には函館湾、その先の海峡が横たわる。
有無両縁塔。江戸末期、遊郭の経営者等が引き取り手のない遊女を供養した石塔。
外人墓地の更に奥の隣に日本風の墓石が立っていて、案内文を見ると、南部藩士の墓地と出ている。北海道には江戸の初期から松前藩があって、今の函館の西、現在の松前町に藩邸があった。松前藩はその藩領を越えて、千島列島、樺太まで勢力を伸ばし、アイヌと交易をしていたが、江戸中期頃よりロシアが進出してきて、松前藩ではロシアの進出を食い止めるのは心もとなく、そこで幕府が直轄することになり、その警備を弘前藩、南部藩に命じた。
南部藩は明治維新までの間、函館山の麓に陣屋を構え、函館から白老、襟裳岬方面までの海防治安に当たった。最盛期には350人程の藩兵が在勤していたようで、劣悪な環境の中で、多くの藩兵が死亡した。そうした望郷の念を抱いて死んで行った南部藩士の霊を弔うために、この見晴らしの良い場所に墓地が作られたのだ。下北半島、大間までは約20キロ、故郷に戻ることも出来ず、異国の地で客死した霊が慰められている。
この台地の上には延命寺というお寺もあって、そこには函館に流れて来た遊女の霊を弔う大きな石塔も立っていた。長崎に丸山があって、そこの芸子、遊女は大変羽振りが良かったようだが、ここ函館の遊女はここまで流れ着いた、といった感じのようである。外国にまで渡って行った唐行さんと相通ずる処もあったのか・・。
この岬の近くには市営の火葬場もあり、そのせいか、この寺の宗旨なのか、この寺には又行旅死亡者、即ち無縁仏の供養塔も建っていた。流れ流れ着いて最北の町、函館に辿り着き、身寄りもなく死んで行った人々の霊だ。眼下には北海道と本州を区切る大きな海峡が横たわっていた。疲れた足を苦労して、ここまで歩いて登って来たのは良かった。
本州のどこからこの最北の地まで流れ着いてきたのか・・
万平塚。万平さんは函館の有名人で、乞食ではあるが、石川啄木の歌にも歌われてそうだ。
万平塚、無縁塚。
この念仏寺の一般檀家の墓地。奥に函館山(御殿山)の山頂が見える。