ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(26)万松院の百雁木を下り降り、ホテルに向かう。

万松院、百雁木の132段の石段を何回か休んで下り降りた。

 

万松寺を出て、お城に戻る途中に朝鮮通信使宿舎跡の石碑が立っていた。

 

更にお城の前まで来ると、万葉集の歌碑が立っていた。「ありねよし」は対馬にかかる枕詞とのことだ。

 

町の中心の交差点近くに厳原周辺の案内図が掛かっていた。地図の下には朝鮮通信使の再現行列の写真があった。

 

 

万松院の最高所にある対馬藩主宗家累代の墓所、御霊屋(みたまや)にお参りし、再び132段の百雁木の石段を下り降りる。登る時には2‐3回休んで上まで来たが、下りも膝が痛みスタスタとは降りられない。登る時以上にゆっくり下り降りた。この石段は百雁木(がんぎ)と呼ばれている。元々は樫の木か何か材質の強い木材で作られていたのかも知れないが、今はシッカリした花崗岩で作られている。渡り鳥の雁が並んで北へ向かって飛んでいく様を雁行と言うが、この階段も殆ど同じ歩幅で綺麗に並べられて作られていて、それが100段以上もあるので、百雁木と呼ばれるようになったのだろう。

今日の午後の観光はここ万松院が最後で、後はそれぞれ先刻歩いてきた道を戻って、町の中心部にある今晩のホテル、東横インにチェックインする。単純な町で、迷うことはないし、車の通行も殆ど無いし、事故の心配もない。歩行の遅い自分にはむしろこうしたさみだれ解散の方が、他の参加者に迷惑を掛けなくて済む。金石城から万松院まで凡そ300m程あるが、来る時は前の人に付いて行くのに懸命で、脇目も振らず!の思いで付いてきたが、帰りは一人なので、ゆっくり道沿いの史跡なども見ながら、歩いて帰ることができた。お陰で来た時には気が付かななった幾つかのスポットも発見できた。

その一つが朝鮮通信使居留館跡で、そこには今は関係ない別の建物が建っているが、その建物のコーナーに、館跡を示す石碑があった。丁度、お城とお寺の中間程の場所にあり、当時の外国からの使節を鄭重にもてなした跡が窺えた。対馬は小藩ではあったが、日本の外交の窓口、最先端の藩としての矜持もあったのだろう。対馬藩は対岸、半島の今は釜山と言う韓国第2の大都市になっているが、当時はまだ田舎町に過ぎなかったが、そこにかなり大きな土地を確保し、現地商社のような領事部のような出先機関を持っていて、数百人の日本人が住んでいた。一説によれば、江戸時代以前、寒村に過ぎなかった釜山が今のような大都市に発展したのは、日本人の移住、開発によるもので、日本人は釜山の生みの親とも言われている。

それから又金石城の前までやって来ると、万葉集、防人の歌が刻まれている。663年、白村江で大敗した大和朝廷軍は西の防備を固める為に多くの東人を防人として送った。万葉集にはそうした防人の故郷を想う歌、妻子を想う歌が数多く載せられている。そこには勇ましい軍歌調のものは少なく、多くが個人の思いをストレートに表現する芸術性の高いものだ。1400年の昔、文字が伝来してからまだ200年も経っていないこの時期、徴兵された一兵卒がこのような芸術性に飛んだ短詞を残していた。日本人は世界でも稀に見る知的で、感性の高い民族だったのだ。現代の日本人、若者はそのことを忘れているようだが、もっと誇りに思って、世界に羽ばたくと良い。

「ありねよし 対馬の渡り 海中に 幣取り向けて 早や帰り来ね」 万葉集巻1-62。自分は万葉集、万葉和歌に疎く、石碑に刻まれた古歌を読んでも、意味は良くは分からない。勝手な解釈で、この島へ防人に向かう兵士に対し、家族か恋人がひれ(領巾)を振って、健康と無事を願い、早い帰宅を願った、と思っていた。興味があったので、少し調べてみると、この歌は防人とは関係なく、大宰府を出た遣唐使随員の無事を願ったものだった。「ありねよし」は対馬の枕詞で、奈良の都の「あおによし」と同様の案クラ言葉だった。漢字で書くと「在り嶺良し」。案る程、対馬壱岐と比べたら、遥かに高い山が多い。枕詞としたらぴったりだ。次の「対馬の渡り」は対馬海峡を意味し、対馬に向かうことではなかった。幣(ぬさ)に付いては自分なりに思う所もあり、別の機会に考えてみよう。

 

  • その案内板の隣には、何か別の石碑が立っていた。

     

    中心部交差点から見た右手の金石城、資料館と後方の山は以前の山城。この山の麓に万松院がある。


    交差点の前には市の大きな施設があった。


    その奥の八幡神社の森。