ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(31)対馬、和多都美神社考。

以前の鳥居は沈殿し、上部しか顔を出していない。

 

ああ、珍しい。三本柱の鳥居だ。初めて見たが、どうした言われがあるのだろう・・。

 

和多都美に関する由来、三柱鳥居に関する説明なども出ている。

 

 

海中に立ち並んでいる鳥居を見て、この神社が如何に海と関係の深い神社だとは、その光景を見た途端に即座に思った事だった。「わたつみ」とは海の神様を意味する言葉で、漢字では通常は「海神」と書かれている。しかし、ここの神社は「和多都美」で、どちらが正統なのか自分には分からない。先の司馬の「街道をゆく」の中には、この「和多都美神社」の記載はなく、もう一つの「海神神社」の方が詳しく記載され、写真まで出ている。こちらの「海神神社」は対馬一宮で、由緒正しい神社と分かる。ただ二つの神社とも祭神は豊玉姫で、どうも半島からやって来た、別個の種族が、それぞれ別系統で「海神」、「和多都美」と二つの神社に祀ってきたのだろう。或いは、官の側の「海神」と民の側の「和多都美」か。それは丁度官の歴史書日本書紀」と民の歴史書古事記」のような関係か・・。

 

話は前後するが、この「和多都美」の参拝を終わった後、この神社の裏側にある綺麗なトイレのある広い駐車場で少し時間待ちをした際、添乗員の隈さんにもう一つの「わたつみ」神社はどこにあるのか、長い石段と立派な社殿のある神社だが、と聞いてみたが、彼はそのことは全く知らなかった。この島の出身ではないので、そうした知識が無いのは当然かも知れない。そこでバスの運転手に聞いた処、最初はどこか分からない風だったが、対馬一宮の名前を出した処、即座に理解し、「ああ、そのわたつみ、それはこの先の少し上がった場所にあります。かいじん神社ですね。」と、司馬の本に記載されているような情景を説明してくれた。そうか、今は「海神」と書いて「わたつみ」とは読まないで、そのまま字句どうりに「かいじん神社」と呼ばれているのだ。その呼び方を聞いて、とっさに「船橋海神駅」を思い出した。その駅は船橋市神町にあり、この辺りの地名は、昔は「わたつみ町」と呼ばれていた。伝説によれば、昔この辺りに海からやって来た訪問神を祀る社があったとのことである。「海神」と「和多都美」は同体なのだ。「ニライカナイ」はここにもあったのだ。

 

面白いことに、今いるこの辺り、戦前の海軍が掘削した運河の上を走る万関橋を渡った先のこの辺りは、古代には対馬の中で「上県郡」と呼ばれていた。厳原のある辺りは「下県郡」と呼ばれていたが、何時の頃からか、その呼び方が逆転し、上下が反対になった。昔は都に近い方が上で、都から遠い方は下と呼ばれていた。千葉の房総の、上総、下総、都に近い今の群馬県が上州、上毛野、遠い栃木が下野、と呼ばれていたようなものだ。とすると、古代、この島に二つの神社が鎮座したころの都は半島、大陸にあったのか・・。それが大和朝になって都が飛鳥、奈良に移り、従ってこの島の地名も上下が逆転した。そうとも理解できる地名の逆転劇だった。

 

和多都美社殿はどことなく庶民的な小型の建物で、昔で行ったら村社、どこにでもあるような村の神社の様相だった。海神神社は結局写真で見ただけで終わってしまったが、その海神の厳めしい、どこから見ても対馬一宮に相応しい様相と比べると、格式の違いは歴然としたものだが、だがこの小さな神社は、何か日本人の古里に繋がるような、身近さを感じさせるものがあった。神社の裏の林の中に小道があって、そこは豊玉姫の墳墓を祀る磐座に繋がっていた。そうそう、あと一つ忘れていた。ここには全国でも珍しい三柱鳥居が建っている。鳥居は通常日本の柱で出来ているが、ここは柱が三本で、三角形の鳥居をしている。しかもその三角鳥居が二カ所もある。・・どういう言われ、言い伝えがあるのだろう・・。現代人には伝わらない、既に忘れ去られた深い意味でもあるのだろうか・・。三本柱は一番安定すると言われる。日本柱よりも4本柱よりも、しっかりと安定する。三柱鳥居はそんな単純な理由からではないと思うのだが・・。

 

神社社殿は小ぶりで厳めしさは感じられない。

 

もう一つの三柱鳥居。何等かの磐座が祀られている。

 

庶民的な神社だ。

 

社殿裏の小径を通って、豊玉姫の埋葬墓に向かう。