ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(36)万関橋を渡る。

これから万関橋をゆっくり歩いて渡る。

 

橋の中程にはバルコニーのような展望スペースがあり、そこから眼下の運河を眺める。大きな掘削で、大きな海軍艦船も通過可能だろう。

 

この運河により東西の海が一つに繋がり、対馬は南北に二分された。

 

台風が通過した後の海は静かで、青々としていた。

 

和多都美神社のある浅茅湾から厳原に戻る途中に明治の時代日本海軍が地峡を掘削して東西の海を一つにつないだ万関瀬戸がある。その瀬戸運河の上には大きな橋が掛けられていて、島が南北二つに分離された島民の交通の利便を図っていた。帰りのバスは橋の手前でツアー客を下ろし、客はそこから橋の反対側まで歩いて渡って橋の中央部から眼下の水道を眺めたり、東西両方向の海を眺めることができた。まるで深い海峡のようだ。

 

橋の長さは見た処100~150m程か。車道の横には遊歩道のような歩行者通路が作られていて、その真ん中辺りににはアーチ状の展望スペースが作られていて、観光客はそこに立ち止まって眼下の運河、瀬戸の海峡を見下ろすことが出来る。高さは凡そ80~100m程か。橋の上から水面までは真っすぐ垂直で、途中に何も遮蔽物が無いから、随分高く思えるが、実際の高度は80mも無いかも知れない。今架かっているアーチ橋は3代目とのことで、20年ほど前に作り替えられたとのことである。以前の橋の形状がどんなものか想像もできないが、多分、第1代目から鉄の橋、鉄橋だったかと思う。

 

日本海軍は来るロシアとの戦いに備え、国防を最優先に考えた。朝鮮半島がロシア軍に占領され、ロシア軍港旅順港から出撃するロシア艦隊が、対馬を侵すかも知れない。従って対馬にも壱岐にも数カ所の砲台を造営し、敵の襲撃に備えた。その一環として日本艦船がこの島の東西を縦横に動き回れるように、対馬を真っ二つに分断し、東西の海を繋げた。明治の開国から文明開化、富国強兵に務めた明治の国家は司馬遼太郎坂の上の雲のごとく遮二無二国力の増強と近代化に務めた。その一つの結晶が今歩いて渡るこの万関橋の真下、幅広の海峡にある。

 

明治38年(1905年)、この島の沖合で東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアバルチック艦隊を迎え撃ち、完膚なきまでに打ちのめしたが、その時この運河が大いに役立ったとの記述は自分は寡聞にして知らない。日本海大海戦への直接的な支援はなかったとしても、政府は砲台を造り、運河を開削し、万全の備えをした。当時の日本はまだ借金国であったが、更に又多額の借金を欧州財閥から借り入れてまでして軍備増強に務めた。今まで欧州戦線で負けたことの無かった軍事大国ロシアを、開国僅か30数年の日の出の勢いの日本が打ち破ったのだ。ロシア憎しの欧州人の喜びは如何ばかりだったか・・。

 

フィンランドの首都ヘルシンキにはトーゴ―通りもある。何の変哲もない街中の通りだが、当時ロシアからの独立を戦ったフィンランド人からの東郷元帥に対するオマージュだ。この戦いで西洋文明社会に於いて日本の栄誉は定まった。鉄橋の中程のバルコニーから眼下の海峡を眺め、明治の時代の日本人を誇りに思った。ここは明治の産業遺産には入ってはいないが、当然に推薦されて然るべきだ。ポルトガルポルト市のドウロ川に架かるルイス1世橋に比肩されるほどの文化遺産だ。日本は自国の優れた業績を正当に評価すべきだ。台風2号の通り過ぎた今日の対馬海峡は波静かで、海も青々と澄んでいた。

 

橋を渡った先には整備された小公園があり、休憩できる。東屋の屋根は島の頁岩で葺かれている。

 

万関橋周辺のガイドマップ。

 

周辺の観光案内。上から2段目には海神神社の写真も出ていた。