ちゃおチャオブログ

日々の連続

壱岐・対馬2島巡り(35)対馬、万関橋へ。

烏帽子岳展望台から眼下の浅茅湾を眺め、下山する。

 

再び和多都美神社の前を通り、国道に出る。

 

神社へはバスの中から遙拝する。

 

国道沿いに浅茅湾が入り込んでいる。静かな湖沼だ。

 

 

先の万葉集の石碑、「在り嶺よし・・」の時代には、この島の南北は一本に繋がっていて、上県と下県と呼ばれていた。南北に細長い島で、古代には北側、即ち半島に近い半分が上県、九州に近い方が下県と呼ばれていたが、奈良朝時代から呼び方が逆転し、上下が反対になってしまったが、その呼び方は今でも引き継がれている。都に近い方が上、遠い方が下、1000年の都は京都から東京に遷都したが、都の方角は1000年の前と変わらないが、2000年前には逆だったかも知れない。

 

南北に細長いこの島は、丁度真ん中辺りでくびれていて、両側の海とは数キロもない。従って昔の人は、小舟をぐるっと回わして反対側の海に出るよりは、その数キロの陸地を船を引っ張って反対側に運んだ方が時間的にも労力的にも楽だった。だからこの狭まった地形は「舟越」と呼ばれていた。こうした細長い半島のような場所で真ん中がくびれて狭まっている地峡のような場所を「舟越」と呼ぶのはここ以外にも日本の各地で幾つかある。去年石垣島を訪問したが、その北端の伊原間という場所に丁度そのような地形があり、そこは「舟越」と呼ばれていた。偶々路線バスに乗っていて、音声マイクで次の停留所を案内するのだが、「次はフナコシ」の音声が出たので、前方運転席の文字表示をとっさに見たら漢字で「舟越」と表示されていた。沖縄の小型船「サバニ」は軽いので、2‐3人で持ち上げてその数キロの地峡を運んだのだろう。

 

対馬のこの2‐3キロ程の地峡を簡単な水路のようなものを作って両側の海を繋げたのは江戸時代だが、その水路は本当に沖縄のサバニ程の伝馬船位しか通行できなかった。明治になって日本政府、海軍府は日清、日露の戦争でこの海域がきな臭くなり、大々的な掘削をして大型鉄鋼船でも通過できるような幅広の運河を作った。この運河が開削され、上下の島に二分されたのは丁度日露戦争開戦直前で、この時以来一つの島は二つになって、橋で結ばれることになった。その橋の名前は万関橋と呼ばれるが、それはここの土地、万関瀬戸から来ているものである。烏帽子岳展望台から浅茅湾を眺め、バスに乗って再び和多都美神社の前を通り、一山越えた先にこの朱色の橋が見えてきた。

 

 

厳原へ戻る途中、1か所万関橋で下車する。

 

橋の両側は観光用に綺麗に整備されている。

 

前方に赤いアーチが見えてきた。万関橋だ。

 

運河は随分高い位置で掘削されている。