ちゃおチャオブログ

日々の連続

西国観音霊場巡り(16)阿弖流為(あてるい)の碑を見て、二念坂(寧坂)を下山する。

音羽の滝から山門に向かってあるいていると、こじんまりした墓苑があった。

 

ああ、ここは阿弖流為(あてるい)、母禧(ぼれい)を祀る碑だったのだ。

 

坂上阿弖流為との係わり。1200年の今も続いている。

 

坂上田村麻呂は史上に残る最初の征夷大将軍で、正にその冠称が示す通り、征夷即ち東北地方のまつろわぬ民、蝦夷(えみし)征伐の為に朝廷から遣わされた将軍であった。元々は渡来系の士族で、武将として桓武天皇に仕えていたが、蝦夷征伐、、東北征定に軍功を立て、歴史に残る大将軍となった。その田村麻呂と清水との結びつきは良くは知らないが、田村は観音様に深く帰依し、この寺を菩提寺のようにして庇護したようだ。

 

清水寺音羽茶屋でお蕎麦を食べて一服し、帰り際音羽の清水を口に含んだら、その美味なこと。水に癖が無く、勿論匂いも何もない無色透明な水質だが、それが何とも言えない奥深さ。この寺の名前、清水寺の名前がこの音羽の清水を飲んでこそ、理解できた。京都は酒どころ。この平安京の反対側、右京区には酒を祀る松尾大社があり、その宮は焼酎発祥の地、壱岐の人々が造営した。又、この清水寺下流域には伏見の一大酒産地がある。お酒は水が命。音羽の清水はアルコール分がないだけで、伏見の生一本と変らぬふくよかさがあった。

 

音羽を最後に寺を下山しようと山門に向かうと、その途中に阿弖流為(あてるい)の碑があった。以前来た時は気が付か付かなかったが、こんな場所にあったのか・・。阿弖流為、東北蝦夷の族長で、住まいの胆沢(水沢、今の岩手県奥州市)から副族長の母禧(礼)と共に田村麻呂に引き連れられてこの都にやってきた。虜囚の身分として押送された訳ではなかったが、当時の朝廷は彼等を恐れ、殺害してしまった。後から知った田村はそれを悲しみ、この寺に弔った。参道から外れた、裏道と言えるようなこのような場所に、石碑がひっそりと立っていた。その傍らには田村麻呂が帰依していた観音像の石仏も祀られていた、周囲は今も寺により綺麗に掃き清められ、1100年間、絶えず鄭重に祀られていた。

 

来た時はあれ程混んでいた山門(仁王門)前広場も、今は高校生の姿も無く、波が引いたように静かになっている。修学旅行生の代わりに一般の参拝客がそれぞれレンタルの着物を着て、京都の秋を楽しんでいる。レンタル代、1回6000円。1日1000人の人が利用すれば、600万円。この界隈にレンタル店が何店舗あるか知らないが、仮に20軒とすれば1日の売り上げは30万円。観光業も漸く息を吹き返しつつある。そんな着物姿の男女やグループが二寧坂に向かって下って行く。自分もその人の流れに従って、坂を下って行くことにした。

 

仁王門の前の山道は波が引いたように、静かになっていた。

 

レンタル和服の観光客が良く目立つ。

 

人々は二寧坂を下って行く。自分も帰りはこの坂を下って下山する。

 

本格観光シーズンになれば、この坂も人で一杯になるだろう。

 

路地の奥の方にもペンション風の民宿も見える。