ちゃおチャオブログ

日々の連続

宮古の4日間(17)久松五勇士の碑。

久松漁港の小高い丘の上には、五勇士を運んだサバニが顕彰されていた。

 

五人の氏名が顕彰されている。

 

那覇蒲、その他4人の漁師の名前が記載されていた。

 

5本の脚は5人の象徴だ。

 

 

久松五勇士の記念碑が建っている久松海岸は、今は魚港も綺麗に整備され、近海の漁船が数隻係留されていた。久松漁港には辿り着いたが、肝心の記念碑の場所が分からない。案内板も出ていない。漁港の埋め立て地をうろうろしていると、後ろの小高い茂みの中ら、呼ぶ声が聞こえる。ネギさんの声だが、林に隠れて姿は見えない。が、いずれにしても記念碑はその茂みの中だ。高さ20m程の小山だが、脚の弱った自分にはかなりの難儀。枝葉を掴んで登って行くと、先行していた3人が高台の上で待っている。ホ~、漸く登った。

 

その小高い丘の上には5本の足下駄に支えられたサバニが高く掲げられていた。明治時代のサバニが今に残っている筈はないので、後世、昭和になってから同サイズ、同形式のサバニの複製を作って、この場所に掲揚したのだ。長さは10mにも満たない小舟。刳り貫き舟だ。近海用の漁船で、こんな小舟で大海を渡るなど、到底想像もできないものだが、ここに顕彰されている屈強の五勇士は、130キロの海原を10時間かけて渡り切ったのだ。

 

この史実を最初に知ったのは、40年程前司馬遼太郎の「街道をゆく」の中の「沖縄・先島への道」の中にその記載があり、自分の記憶では、その本の中ではこの五勇士のことより、明治の文明開化で、イタリア人マルコーニが電信通信を発明してから僅かに10数年の間に、開国日本はその電信システムを日本全国津々浦々まで張り巡らせた、当時の日本人、日本国家の先進性を高く評価していたことであり、その通信網はこの南海の最南端の島まで及んでいた、という感動的な内容だった。

 

一昨年、稲さんと石垣を訪問した折、路線バスに揺られて島の最北端、伊原間(いばるま)まで行き、そこに建つ五勇士上陸の石碑を見て、改めて感動した。当時、経済的に余裕の無かった政府は、宮古島を飛ばして、先に人口の多い石垣島に通信網を伸ばしたのだ。宮古島近海を通過したロシア艦船を発見した宮古の人々は、沖縄本島那覇までは約300キロ、南の石垣までには約100キロの距離を考え、屈強な若者5人を選んで、石垣まで漕ぎ出させたのだ。彼等の決死の行動が、日露海戦、対馬沖海戦にどれ程の寄与をしたのか、司馬遼太郎は触れたはいなかったが、今改めてこの丘に建つ顕彰碑並びにサバニを眺めると、その感激は一入である。琉球王国から日本国に編入されてまだ40年、日本国を思う沖縄の人々の赤心に感動した。皇国の興亡この一戦にあり、と同じレベルの赤心だ。

 

丘の上からは久松漁港も真下に見える。

 

命も顧みず、この小さな小舟で大海に漕ぎ出した5人は、誰が見ても勇者だ。

 

去年石垣を訪問した際の最北端の伊原間海岸に建つ久松五勇士、上陸の石碑。

     

 

ここへやってくる人もそれ程多くはないか・・。明治の英雄を偲び、丘を下る。