7月最後。明日から8月で、今年も残り5か月となる。目薬が終わり、午前中眼科へ。月曜なのか来院者が多い。2時間以上待たされ、1時過ぎになって漸く診察。と言っても目薬をもらう為だけのレセプト取得だから、診察と言っても僅かに3分。今度は再来週、お盆のさ中の16日。またまた、混雑しているだろう。後2か月、こんな感じで定期検査を受けなければならない。感染症予防の為の点眼というが、その感染症とは一体どういうものかと、今日聞いてみたが、余り良く理解できないで説明だった。最悪の場合、失明も有り得ると。まあ、そうした例は少ないようだが・・。兎も角言われた通り点眼は続けよう。
「秋深し隣は何をする人ぞ」。江戸時代から既に無縁社会は進んでいた。芭蕉が住んでいた深川の杉野戸は、下町の長屋と違って、門人杉風の別宅だったようだから、長屋風のごちゃごちゃ感は無く、多少澄ました場所だったから、芭蕉もこんな句を詠んだのか。
このコロナの3年間で、外出を禁止され、人との往来が制限され、人々の孤立感はより深まった。先週水戸の郊外の住宅地で、39歳の母親が8歳の長男と5歳の長女を殺し、自分も自殺を図ったが、死に切れず警察に通報した。美人で優しい母親だったとの周囲の話もある。この住宅には5年前に家族4人で転居してきたが、今年の1月離婚し、父親は出て行った。5月の長男の小学校の運動会には父親も1日だけ戻って来た。
この母子家庭は何が募って無理心中を図ったのか。母親の実家はここから近い場所にあるという。5月に1日だけ戻って来た父親は家族の異変には気がつ無かったのか・・。近くに住む両親には娘の変調には気が付かなかったのか・・。それとも近くに住んでいても,普段の往来は無かったのか・・。
39歳の母親がこれ程悩み、子供を道連れに死のうとした悩み、苦悩に周囲の誰も気が付かなかったのか・・。8歳と5歳は自分の孫と同じ歳だ。この母子家庭に何があったのか不明だが、母親の狂気を周囲の誰も救うことはできなかった。
今日は又岡山郊外の住宅地で、6歳の長男が親が起きてこない、と隣の家の人に連絡し、隣家の人が家を見た処、両親が居間で死んでいた。38歳の父と42歳の母親。二人は刃物で差し違えのように、死んでいた。警察では心中の可能性もあるとして、調べを進めているが、そういう事だろう。こちらは子供を道連れにしないで、両親だけが心中した。しかし、残された6歳の男児を置いて、二人だけで死んで行くとは余りにも無責任だ。いや、一緒に家族心中をするのではなく、こうした幼児を残しての心中などするべきではないのだ。
この両親も精神的に病んでいた。こうした理不尽な事に考えも及ばず、自分達だけで死んで行った。バカ者だ。
無縁社会になって、こうした社会から孤立し、相談相手も無く、自分達だけで坩堝の中に閉じ込められ、閉じられた思考の中で、絶対にやってはならないことをやってしまう。社会の閉鎖性、無縁社会。周囲と一緒になって困難を助け合って、乗り切ろう、との社会風土はこの日本からどんどん失われて行ってしまう。
札幌すすき野首切断殺人事件もその典型だ。動機面が徐々に明らかになってきているが、この62歳の変態被害者と狂気の娘は4月に初めて知り合い、その僅か2か月後に、今回の事件が起こった。両親と娘の3人が一つの坩堝の中に嵌り込んで、殺意を募らせた。如何なる場面でも冷静さを求められるべき医師は、犯罪の着手、実行、犯行後の行動については全く冷静であったが、殺害動機となるべき精神面では全くの冷静さを欠いていた。全く幼稚に殺意しか募らせなかった。
心の病を救済すべき精神科医が、自身が病に陥り、正常な判断が出来ない状態になっていた。事件以前、この医師が社会から評価尊敬され、各地に出張講演に出ていたというから、恐ろしい人間の二面性だ。
社会がもっと開かれていて、誰でも自由に相談できる窓口とか、警察、相談センターでもあったら、こうした犯罪も防止できたかも知れない。歌舞伎役者の猿之助にしてもそうだ。家族内での閉鎖的な坩堝の世界ではなく、もっと開かれた社会。もしもこうしたオープンな社会だったら、ルーチェルも自殺しないで済んだかも知れない。
政府はもっと制度的に、開かれた、自由な意見と表現をできる社会構築を求めて行かないと、日本全体が坩堝の社会に陥って行くことを心配しなければならない。