ちゃおチャオブログ

日々の連続

第2回西国観音霊場大阪編(10)高槻城址周辺で。

歴史館を出た先の交差点に道路標識があるが、高槻城址は直ぐ目の前にあった。

 

城址は今は公園になっていて、中には文化芸術劇場が建っている。

 

城址公園の案内図。

 

嘗てのお城は3層の天守閣を持っていたようだ。

 

 

高槻城址は歴史館を出た直ぐの場所にあった。歴史館で一休みし、足の疲れも大分和らいだ。交差点の角に方向表示板が出ていたが、それが無くても直ぐ目の前に城址とその後に建築された文化劇場の建物が見える。城址は随分と平らな土地にあった。自分も全国あちこちの城跡を見て来たが、これ程扁平な城跡は珍しい。佐賀城址明石城址も平らな土地にあったが、ここ高槻は嘗てここがお城だったと思わせるような遺物は全く無い。公園風の城址の前に立つ案内表示、解説文が無ければ、ここが嘗ての城跡とは中々想像もできない。敢えて一つだけ挙げればお堀跡であるが、しかしそれもここが嘗てのお城のお堀だと言われなければ、はじめて来た人には分からないだろう。

 

沢山の人が芸術劇場から出て来た。何かのコンサート、集会が終わったのだろう。子供連れの家族が多いから、子供向けの集まりだったのかも知れない。そんな中の中年の男性2‐3人に、先週ここで藤井と渡辺の名人戦が行われたと思うが、どの部屋か?と聞いてみたが、誰も知らなかった。将棋に感心の無い人は、地元で開催されたビッグイベントも全くニュースとしては入ってこないのかも知れない。確か来年あたり、大阪にある関西将棋会館が新たにここ高槻に建築されるとのニュースもあったが、将棋に無頓着な人には、全く関係ない話かも知れない。

 

ここへ来るまでの電車の中で、左側の山並が段々近づいてきて、右手を流れる淀川の川幅が段々狭まって来ていることを実感した。電車の中からは川筋は見えないが、嘗ては平らな土地の直ぐ横を流れているように見えたかも知れない。この高槻の直ぐ先は山崎で、淀川を真ん中にして、チョークのように半閉じになった場所で、戦いの要衝、現に本能寺の変で天下を取った明智光秀はここ山崎の合戦で敗れ、3日天下に終わってしまった。以前行ったこともある水無瀬神宮もこの辺りにあり、舟運、流通、交通の要衝でもあった。

 

優秀な武人と言われた高山右近が、この地に城を築き、3層の天守を備えていれば、淀川の動きは手に取るように分かったのであろう。数奇な運命を辿った切支丹大名高山右近は、江戸開府の後、元和偃武の1年前、バテレン追放令によってフィリピンに送られ、その地で亡くなった。数年前、マニラのペドロギル(Petro Hill)に建つ右近像を眺め、拝み、数奇な運命を弔った。城址からほど近い場所に当時のセミナリオ跡地に建てられた高槻教会にも又右近像が建っていた。その教会の前に咲く、多分、瓊花と思われる白い花が、何か印象的だった。仏教に生きた鑑真和上とキリストに人生を捧げた高山右近とが、この場所で和合しているかのようだった。

 

嘗ての城跡を思わせる堀もあったが、最近になって掘られたようだ。全体が新しい。

 

城址の直ぐ近くには、以前の高山右近時代のセミナリオ跡に建てられたカソリック高槻教会が建っていた。

 

教会の庭にある高山右近像。マニラの右近像は上下の羽織を着た立派な武士の立ち姿だったが・・。

 

教会の前の歩道には瓊花(けいか)と思われる白い花が咲いていた。奇しくもここで鑑真和上と高山右近が和合したか・・。