ちゃおチャオブログ

日々の連続

西国観音まほろば奈良の巡礼記(21)壷阪寺を下山する。

本堂の横手には重文の三重塔が建っている。

 

約500年前、室町時代の建造だ。

 

三重塔を巻くように釈迦一代記の石版が続いている。

 

  • 途中にはセイロンから送られた仏足石板もある。

     

  • 西国観音霊場第三十三番札所壷阪寺(南法華寺)は標高約600mの高取山中腹にある。標高600mは東京の高尾山とほぼ同じ高さで、過去自分は高尾山には何回となく登ったこともあったが、ここ数年、脚力がめっきり落ちて、もうこれしきの山も登れなくなった。山の中腹にある壷阪寺は標高としては300mもないだろう。高取山頂には城跡もあって、ガイドブックには寺からは1時間も掛からない案内になっている。標高差は300m程だ。自分が情けなくなる。

  • 山頂にある高取城備中松山城岩村城と並ぶ日本三大山城で、今でも立派な石垣が残されている。元気な頃の自分だったら、躊躇せずに登っていた筈だが、ここから更に300m程の山道を登ることを思うと、途端に気が萎えた。山には登らずに、下山するしかない。負け犬の如くに尻尾を巻いて下山する。

本堂の横に重文の三重塔が建っている。これは室町時代後期の建築で今から500年程前の建造だ。その一段低い場所に多宝塔があり、この中には平安時代作成の大日如来像が安置されているが、何故かこの像は重文には指定されていない。この三重塔を囲むようにインド渡来の石板で掘られた釈迦一代記のレリーフが嵌められていて、インドルンピ二に誕生してから、ブッダガヤに寂滅するまでの一生涯が彫刻されていた。

道順にそのレリーフを見ながら三重塔を巻いて、階段を下って行く。前方、下の方に明日香の里山が見える。穏やかな景色だ。瀬戸内を渡ってやってきた原大和人は大和川を遡ってこの地にやってきて、大和王朝を開いた。盆地の周囲を山に囲まれ、そこは古代のユートピアのような平和な里山だった。その平和な情景は今に連続している。嘗て高取さんという東大法医学教室の主任教授がいた。高取先生がこの地に生まれ育ったかは知らない。でもこうした穏やかな田園風景は、立派な人間を涵養する素にはなるだろう。そんなことを思いながら下山した。

 

釈迦五印。自分も覚えなければならないが・・。

 

高台の大仏に向かう門。

 

この先の山道を登って行くと、高取山頂、高取城址に行くこともできるが・・。

 

ここからの飛鳥の眺めは穏やかだ。