ちゃおチャオブログ

日々の連続

トルコ史跡巡りの旅(32)カイマクルの「地下都市」探訪。

薄暗い洞窟の中で、ツアー参加者も心配そうな顔付だ。
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通路は地底深くに続いている。
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いろいろと当時の生活の跡があるが、暗くて写真写りが良くない。
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本当にこんな所に1万5千人も生活していたのか??
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このカイマクルの洞窟は、10キロ先のデリンクルの地下都市と地下通路で繋がっているという。
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「カイマクル」。これは勿論トルコの地名であるが、漢字で書けば「買いまくる」。以前高校生の頃、社会か国語の授業で、日本語、朝鮮語モンゴル語フィンランド語、ハンガリー語トルコ語などは、皆一つの語族、ウラル・アルタイ語系に属していて、親戚関係にある、と教わったが、確かにトルコ語の「カイマクル」など聞くと、それを実感する。

トルコ語の「カイマクル」の意味が日本語の「買いまくる」に応答するのかどうかは知らないが、この地下都市の前の陸上部には、かなり大きなショッピングエリアになっていて、土産物店が並んでいる。特にガラスのビー玉を平たくして、「渦巻き模様の目玉」のデザイン魔除け、これをトルコ語では「ナザール・ボンジュール」と呼んでいるが、あちこちの土産物屋にぶら下がっている。一番安い土産物で、10個、20個、ダース買いをしている旅行者もいる。これぞ全く「カイマクル」。

我々ツァー客は、そうした買い物は後に回し、先ずは地下帝国、いや地面不覚に彫られた地下都市へ向かった。カタコンベと違うのは、ここが正しく大都市で、資料等によれば、地下55m、8層になっていて、推定最大1万5千人からの人々がここで生活していたとのことである。1万5千人! 凄い人口で、少しオーバーなようだが、それが事実なら、将に猿の惑星の地下帝国のようなものだ。尤も、ここカイマクル以外にも同じような地下壕のような地下都市が造られていて、それぞれ数キロにも及ぶような地下トンネルで結ばれていた、というから、あながち、虚報ではないかも知れない。

マホメットムハンマド)によるイスラム教がアラビア半島で誕生したのは7世紀初頭だが、イスラムアラビア半島を始め、瞬く間に周辺に広がり、この地域に住んでたキリスト教徒を北へ押しやった。イスラムに追われたキリスト教徒は、トルコの地まで逃げて来て、この岩石の柔らかい土地を利用して地下壕を掘り、そこで生活するようになった。

地表は何もない荒野。地下は凄い町。小さな教会もあれば、ミルもあり、パンなども焼かれていた。煙と汚物、水には苦労したようだが、煙道を作って、はるか先の山の彼方から煙を出したり、水も地下水路を引いていた。そうして身を潜めていたが、この地下都市も一度ならず発見され、攻撃されたとのこと。しかしモスレムは穴の中までは入って来れず、穴の入り口から熱湯を流しこんだり、オイルを垂らして火を放ったりしたようだ。まるで、悪魔がアリの巣に水を流し込むような悪行である。

トンネルの入口近くには、何トンもあるような巨大な丸石が置かれていた。何の為かと言うと、イスラムが攻めてきた時、その丸石を転がし、トンネルを塞ぐためだったとのこと。穴に石の栓をすることだ。どこまでモスレムの猛攻に耐えられたのか知らないが、この地下都市が何世紀にも渡って住居として利用されてきた点は、驚嘆に値する。

しかし、不思議なものだ。トルコはセルジュクからオスマンに変わり、アタチェルク以降、今は近代国家になってはいるが、まだ国教はイスラムだ。そのイスラム教徒が今こうしてキリスト教徒の隠れ家を案内している。7世紀から始まったモスレムとクリスチャンの戦いは連綿として続き、十字軍遠征を経て、今もなおイスラエルの地で争いは続いている。宗教戦争は止むことは無い、とはハンチントンの言であるが、この巨大な地下空間を歩き、宗教観の違いの根の深さを思った。
 
 
 
 
神秘な地下空間。
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こんな鉄板など当時からあったのか??
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いやー、人一人通過するのがやっとの隙間だ。
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敵が侵入してきた時に入口を塞ぐ巨大な石。
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良くこんな大石を洞窟の中に入れられたものだ!
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地下の探検を終わり、地表に出る直前のほっとした二人。
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