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日々の連続

御巣鷹慰霊登山の旅(4)小諸城址「懐古園」。

小諸城本丸の裏に回ると、そこは樹木が植えられた広い公園となっていた。
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ああ、ここは旧一の丸跡か・・
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この石垣。千曲川の川石を運んだ野面積みだ。
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小諸城址懐古園の築城の経緯が解説されている。「風林火山」、山本勘助だったのか・・。以前、NHK大河ドラマの記憶がよぎる。
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城内は今は桜の古木が多く植えられているようだ。
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本丸・天守閣に代わって今は懐古神社が建っている台地の裏に回ると、そこは広々とした旧一の丸の敷地で、桜の老木が茂る公園となっている。その入口に解説文があり、このお城の由来が記載されていた。当方、今まで大きな勘違いをしていて、この小諸城は、上田城、真田氏の支城とばかり思っていたが、そうではなく、戦国時代は、ここは武田軍の最前線のお城で、当時、上杉軍に組していた武田氏と対峙する出先の城だった。

由来記には、「風林火山」とあり、軍師山本勘助が当城「小諸城址懐古園」を築城したとある。それは天文23年(1554年)、信玄・謙信が川中島で激突した直前の頃の事だった。川中島はこの城の前を流れる千曲川が、もう少し下流、上田の先に行った辺りの河川敷である。「風林火山・軍師勘助」と言ったら、数年前のNHK大河ドラマで人気を博したが、その時の大河ドラマにここ小諸城が登場したかどうかまでは覚えていないが、この立て看板を見て、ハタと理解した。

7年前、即ち2008年6月10日、山仲間と浅間山登山にやって来て、昨日泊まった同じグランドキャッスルに宿泊したが、早朝一人でホテルを抜け出し、どこをどう通ってきたか、この一の丸広場から本丸の石垣を見上げ、それ以前にも一度来た記憶があり、この石垣に懐旧の思いをしたが、今又同じアングルより本丸の石垣を見上げ、懐古に浸った。

懐古園」とは徳川第16代家達公(最後の将軍は15代慶喜)により、明治になってから命名されたものだが、この本丸の丸味を帯びた石垣を眺めると、果たして家達公も懐古の情に浸ったか・・。この旧一の丸広場を突っ切った先に見晴らし台があり、真下を流れる千曲川を見下ろすことができる。途中、東屋などもあるが、取り敢えずはその展望台まで行き、名河千曲川を眺めることにした。



春の桜、秋の紅葉、と市民の憩いの場にもなっているのだろう・・
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ああ、こんな所に東屋などもあり、誰か人が休んでいる。優雅なものだ。
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高浜虚子の句もある。「紅梅や 旅人我に なつかしき」。
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展望台から眺める千曲川。川はお城の直ぐ下を流れている。
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最後の将軍、徳川慶喜の後を継いだ第16代徳川宗家当主の家達公、眼下の流れを見て、どう思ったか・・。古き良き江戸時代を懐古したのだろうか・・
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