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日々の連続

御巣鷹慰霊登山の旅(6)小山敬三美術館。

フランスから帰国した小山敬三は居を茅ケ崎に構えたが、一方でこの地、小諸城址懐古園の傍らにアトリエを作り、今そこは敬三美術館になっている。
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美術館の庭先には種々雑多な庭石、火山石が展示されている。
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館内の撮影が一切禁止で、10分程で館内を回り、直ぐに藤村記念館に向かう。左のナマコの建物は武器庫。その前方に記念館がある。
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再びお城に戻り、藤村館へ。年代のせいか、地震等のせいか、礎石がすこし歪んで(膨らんで)いるようにも見える。
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再び懐古神社の裏手を通って行く。
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小山敬三という画家はここへ来るまで知らなかった。お城巡りのチケットは4か所綴りになっていて、メインの懐古園と小山敬三美術館、島崎藤村記念館、それに入口近くにある書画骨董の展示場、徴古館である。時間が無い中、案内マップの順番から行くと、城外にはなるが次の場所は美術館である。

深い空堀に架かる酔月橋から展望台の高台を望見し、ほんの写真を1枚撮っただけで美術館に急ぐ。その途中に寅さん記念館もあったが、立ち寄る時間はない。仮に時間があったとしても、この記念館は現在休館中で、中に入ることはできない。入口の手前に寅さんの像が立っていたが、彼のトレードマーク、右手に持った箱型トランクで遠くからでも即座に寅さんと分かるものだった。

美術館の前庭はそれ程広いものではないが、木立の斜面の中に様々な形をした岩石が置かれている。説明板を読むと、それ等の岩石は嘗て浅間山が噴火した際に、飛んできた火山岩とのことだった。勿論この場所に飛んできたものではなく、この美術館を建設した際に、どこかからか運ばれてきたものだが。

浅間山の大噴火と言えば、天明の大飢饉をもたらせた天明3年(1783年)の大噴火があり、成層圏まで達した粉塵は太陽光を遮り、その年の気温を数度引き下げて冷夏を齎し、東北地方が不作となって10万人からの領民を餓死させたとも言われている。更にもっと大規模な爆発は、平安末期にもあり、先年上州渋川の辺りで冑を着けたままの東国武士が発掘されているが、浅間、榛名の大噴火は先史時代から激しく、現代にまで続いている。

7年前、当方が浅間に登った時も、この山は活火山で登頂ができず、その直ぐ向いにある前掛山山頂で、浅間の噴煙を眺めたが、今この庭に置かれた火山岩を眺め、7年前の登山、山頂に至るまでの数か所の火山観測所、警戒レベル4の表示、等々を思い出した。

美術館に入るとその浅間山をモチーフにした連作が何点か架かっている。赤富士は北斎以来何人もの文人画家が描いていて、近年では総理官邸に飾られている横山大観の赤富士も有名であるが、それをイメージしてかどうか、ここには「赤浅間」の30号を越えるような大きな絵画も掛かっていた。小諸で生まれ育った画家のことはある。

解説を読むと、小山敬三氏は明治30年にここ小諸で生まれ、上田中学卒業後は慶応義塾に進み、後、画家を目指して藤島武二に師事し、後年、大正年間に島崎藤村の勧めでフランスに渡り、昭和の始めフランス人の奥さんを連れて帰国した。戦後は茅ケ崎に居を構え、芸術院会員、文化勲章も受賞し、昭和62年(1987年)91歳で亡くなった。

100点余り展示されている絵画の中で、目を惹いた作品に東洋的なフランス人少女のものが数点あり、それは東洋と西洋の美が融合したような奥深い美しさを湛えていて、成長と共にその美貌は深まり、小山氏がフランス人奥さんとの間に得た掌中の宝と思えたが、実はその解説書には二人の間に子供はいなかった。そうとすれば、この女性は小山氏の奥さんであったかも知れない。館内が写真撮影禁止であり、このうら若いフランス人女性も浅間の連作も写真に収めることが出来ず残念であったが、限られた時間、ほんの10分程度を駆け足で回ったものだが、小さいながら印象に残る美術館だった。



島崎藤村銅像。後ろが記念館。
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藤村は「椰子の実」の作詞もしたんだ。
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「椰子の実」全文。子供の頃口ずさんだ歌唱だが、この歌詞まで作詞していたとは!
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藤村記念館も慌ただしく回り、閉館直前の徴古館に滑り込み、ぐるっと一巡して、外に出たら、デコ一が展示してあった。
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いや待て、これはデコ一ではなくて、C56だ。泰麺鉄道で活躍した機関車ではあるし、今現在は靖国遊就館にも同型のものが展示されている。
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